gofujita notes

on freewritings

フリーライティングについて考えたことを、かいていく場所です


はじまりのフリーライティング

エピローグ:情報を自分のものにすることは、成長することである。自分が成長するとき、人々は幸福感を手にする

さあ諸君、授業を始めよう。あと15分はある。[1]

仕事をやめて、大学院生になって少したった頃だったと思います。専門書や論文を読むあいまに、初期近代哲学の本を、納得できるまで繰り返し読んだことがあります。中学や高校の頃から、いつか読みたいとあこがれつづけていた本です。紀元前にギリシアで生まれた人類の知的冒険が、ヨーロッパで復活する契機になった本だと、どこかで読んだり聞いたりしていたからです。科学をこころざすひとりとして、解説書ではなく本物をぜひ読んでおきたいと思っていました。近代科学が生まれた現場を、直接見たいと思っていました。

原文で読みたかったのですが、ラテン語で書かれているものが多いと知り、さっさとあきらめて日本語や英語に翻訳されたものを読みました。その代わり、できるだけ複数の訳本をあわせて読むようにしました。翻訳された文章は、翻訳者という読者による解釈のひとつだと思っているからです。もちろん翻訳された文章は、翻訳者が智力を総動員し、強い勇気をもって選んだ解釈であり、読者はそれを尊重すべきとも考えています。

読みはじめてすぐ、難解と思いこんでいた哲学の古典が、実はそうでもないことに気づきました。できるだけ多くの人に読んでもらうことを意識して、分かりやすい文章を心がけた作品の多いことに気づきました。とくに英訳を読んでいるとき、それを強く感じました。しかも、言葉のひとつひとつに無駄がなく、選び方も厳密なので、安心して読み進めることができます。そして、その文章が織りなす論理の緻密さと大胆さといったら…。

少しほっとしたのは、本全体の目標が壮大であっても、それぞれの章や節で取り組んでいるテーマの多くが、身近なものだったことです。たとえば、夜中に目が覚めたとき眠れなくなるのはなぜか、そんなときは何をすればよいのかといった、生活する上での小さなコツのような問題に真摯な態度で取り組んでいました。

こうして読んだ本の中で、ぼくは、とくにデカルトとスピノザに興味をもちました。彼らは、ぼくたちの心の中にあるよろこびや悲しみといった感情とのつきあい方を、これでもかというくらい徹底的に考えています。そして、感情とは別のところに、感情を観察している「自分」があるとしています。さらに、その自分がどのようなときによろこびや悲しみを感じるか、これまた恐れ入るほど念入りに観察し、厳密に分析しています。

その中で、よろこびについて、デカルトたちはこう説明します。自分が自分の一部と考えている体や精神の可能性が増すとき、自分はよろこびを感じる。つまり、自分が出会った情報を真の意味で自分の身につけることができ、それまでできなかったことが可能になったとき、自分は幸福感を感じる。そしてこれこそ、人のような知的存在がもつ大切な特徴である。彼らはまた、人が日々出会う情報を自分のものにする方法についても提案していきます。正しい情報と誤った情報を見分ける方法、正しいと考えられる情報をもとに、さらに新しい情報をみつける方法、そして、そして…。

少し脇道にそれますが、上に書いたことはまだ、ぼくがひとりで読み、ひとりで考えた段階です。勘違いも少なくないと思います。また、デカルトやスピノザが提案したこれらのアイディアは、その後、400年という時間の中で多くの人々によって鍛えられ、ある部分は葬りさられ、別の部分は成長していることも、忘れてはいけないと考えています。その部分について、ぼくは、まだ知らないことがたくさんあります。

さて。先にも書きましたが、デカルトたちは自分の発見をできるだけ多くの人に伝え、それを人々の生活に役立つことを願っていたと、ぼくは予想しています。文章を読む限り、その可能性が高いと考えています。とくにスピノザからは、そういった意志を強く感じました。しかし残念ながら、現実には長いあいだ、貴族など一部の人だけがデカルトたちのアイディアを専有した時代が、長くつづいたことは否めないと思います。本などの情報媒体が高価で、読み書きを習ったりするほどお金と時間に余裕のある人の割合が低い時代がつづいたと、理解しています。

でも、ああ、なんていえばいいのでしょう。ぼくたちは幸運なことに、21世紀にくらしています。誰がなんといおうと、デカルトたちの生きた16世紀や17世紀とくらべものにならないくらいたくさんの人が、人類の知の遺産を分かちあえる時代に生きています。そういった情報を、安価にかつ高速で手にいれることができる時代にくらしています。情報を自分のものにする方法さえ整えば、これまでになく多くの人たちが、デカルトたちの遺産に限らず、広く人類の知的活動の成果を自分のためにつかうチャンスを手にしているのです。

そして、これまで何度も繰り返してきましたが、フリーライティングは、そういった情報を自分のものにするプロセスの「はじまり」を担っています。日常で出会うさまざまな情報、本や論文で出会った情報だけでなく、実際に自分のまわりで起こっていること、自分の中で起こっていることすべての情報を、まずは自分の頭をとおして文章という処理しやすい情報に翻訳し、その情報をベースにまた別の情報に変化させていきながら、それらの情報を自分の一部にするプロセスのはじまりを担っています。そして、その行為自体が、人の幸福感と強く結びついているのです。

20世紀初期のフランスで哲学の教師をしていたアランは、こういっています。幸福というものはない。幸福感をもつ人がいるだけだ。フリーライティングは、ぼくたちが日々「これでよし」とうなづきながら生活をつづけていくための、つまり、幸福感をもつ人であるための、強力な道具なのです。

  1. 1941年のロンドン大空襲で社会人大学が全焼し、けがをした人たちの救助活動を終えたあと、瓦礫の中にたちテキストの土埃をはらいながらユーリー・スコット先生がいった言葉 (浦沢直樹・勝鹿北星. 屋根の下の巴里. マスター・キートン第2巻. 小学館)。スコット先生は、考古学をめざす探偵、キートン・太一の恩師。この先生には、実在のモデルがいるような気がしてなりません (笑)。