gofujita notes

on freewritings

フリーライティングについて考えたことを、かいていく場所です


公開するフリーライティング

フリーライティングからはじまった文章は、自分の文章になっている可能性が高い。たとえ何かを読んだことがきっかけでも、頭に浮かぶことを書いた文章だから、自分しか書けないものが紛れこむ。

本やエッセイ、オンライン記事、そして論文などで文章を公開する意義のひとつは、多くの人に役立つ情報を提供することである。この「役立つ」は広い意味の「役立つ」でいいと、ぼくは思っている。

その文章の1%でかまわない。自分だけにしか書けない何かをプラスできていれば、それでかまわない。フリーライティングからはじまった文章には、自然にその自分だけの何かが紛れこむことが多い。あとは、それをみつけて磨いてあげればいい。

ブログなどオンラインの記事に限らず、紙の媒体しかなかった頃でも、お金をかせぐことだけにこだわらず、本やエッセイ、論文を発表しつづけた人の多くは、その1%の価値に気づいた人たちではなかったろうか。

20世紀初期、プロポと呼ばれる断章を毎日書きつづけたアランは、こう言っている。

自分がほんとうに得たいと思うものを欲すること、これは往々にして、人生の極意でもある[1]

フリーライティングからはじまった文章には、あなたがほんとうに得たいと思うものが、紛れこむことが多い。それこそ、あなたしか書くことのできない何かなのだと、ぼくは考えている。

  1. アラン (神谷幹夫 訳). ノイローゼ. 幸福論. 岩波文庫.