gofujita notes

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フリーライティングについて考えたことを、かいていく場所です


はじまりのフリーライティング

6. フリーライティングの機能

古代の賢人は難船から救われてすっぱだかで陸に上がると、「おれは全財産を身につけているのだ」と言った。同じようにワーグナーは音楽を身につけている。ミケランジェロは彼の描いた崇高な絵画をすべて、身につけている (アラン. 幸福論. 岩波文庫. 神谷幹夫 訳)。

いよいよフリーライティングの連載も大詰めです。これまでの記事で、フリーライティングをオープンな習慣にする方法や、いつでもどこでもフリーライティングできる環境としての「フリーライティング・ガレージ」のつくり方、そしてフリーライティングしたことを育ちやすくするアウトライナーの使い方などを紹介しました。これらは、決められた時間、頭に思い浮かぶことをひたすらタイプするという、ごくかんたんな原則しかもたないフリーライティングを、自分の生活を育てる道具として使うコツのようなものです。

でも、フリーライティングが実際にどんな場面で役立つのか、まだイメージしにくい部分があると思います。そこで、この連載のしめくくりとして、フリーライティングの効能といえばいいでしょうか、5年間フリーライティングをつづけてきた経験者として、どんなときにその良さを実感したのかを整理しました。

6.1. この世界からの情報を自分のものにする

フリーライティングの役割を一言にまとめなさいと問われたら、ぼくはこう答えます。

「フリーライティングは、日々出会う情報を自分のものにするプロセスの『はじまり』である」

ここでは、情報という言葉を広い意味で使っています。情報の代表例として、本や論文、オンラインの記事など、さまざまな文章を読みながら得た他人のアイディアや、それが引き金になって浮かんだ自分のアイディアなどが、最初にあげられます。でもそれ以外にも、大切な情報があります。ぼくたちが生きているこの世界から、直接得ることのできる情報です。

分かりやすい例として、人類学や生態学などのフィールドワークで、調査対象の人や生きものから集める情報が、あげられます。研究者はこのような情報をデータと呼びます。この見方を延長すると、フィールドと呼ばれる特別な場所だけでなく、ぼくたちが日常を過ごす場所、自分の家や部屋、通勤や通学の道で出会う情報も、同じデータと考えてよいことに気づきます。たとえば、家族や同じ町にくらす人たち、職場やカフェ、コンビニやスーパーで出会う人たち。そして、会社や学校、自治体といった人がつくりだしたシステムなど。もちろんその空間は、人以外の生きもたちの生活の場でもあり、生きもの全体が形づくるシステムの中に、人のシステムも含まれていると、とらえることもできます。

加えて、ぼくたちの体の中からの情報もあります。一番身近な例は、感情など心の動きでしょうか。たとえば、締め切りが近づいているのに作業が進まないときの焦り。あるいは、社会の理不尽を目の当たりにしたときの怒り。そして、家族の笑顔を目にしたときの喜びなど。感情は自分の中で起こる出来事ですが、体の外にあるものと同じように自分では完全にはコントロールできない現象であり、自分が観察できる対象だと、ぼくは理解しています。さらに、感情より大きな感情と呼べばよいでしょうか、たとえば環境問題を解決したいなど、いわゆる「夢」や「志」と呼ばれるような心の状態も、ここでは情報の一部としてあつかうことにします。

繰り返します。フリーライティングは、こういった広い範囲にわたる情報を自分のものにするプロセスの「はじまり」を担っているのです。

6.2. フリーライティングが機能する6つの場面

情報を自分のものにするとは、どういったプロセスを指すのでしょうか。そして、フリーライティングは、その「はじまり」をどのように担うのでしょうか。ここでは、6つの場面に分けて説明します。

Scene 1. 読んだり聞いたりして出会った情報を、自分のものにする

本や論文を読んだり、ウェブサイトの記事を読んだり、あるいは興味あるテーマのシンポジウムやセミナーに参加したり…。こういった、自分が情報を集めようとする状況では、得たい情報がどんどん目の前を流れていきます。そんな場面で、ぼくたちは、まず通常のノートをとります。つまり、今読んだり聞いたりしていることや、そこから連想して思いついたアイディアの要点を書き留めます。

でも、それだと物足りないときがあります。いや、もっと何かをしたいときがあります。そうか、これだったんだと、視野が開けるような瞬間です。そんなとき、ぼくは読んだり聞いたりするのをやめ、フリーライティングします。シンポジウムなどの場合は、集まりが終わったあとにそうすることが多いですが、途中で話を聞くのをやめて (ごめんなさい) フリーライティングすることもあります。中学や高校の頃、授業を受けながら「これだ!」と思いついたときに、授業そっちのけで (これまた、ごめんなさい) ノートに書きなぐったことが、たまにありました。大きな文字で書くことが好きだったせいもあり、あっというまにノートの最後のページになった覚えもあります。今思い返すと、あれも、ここでお話しているフリーライティングのひとつだったと思います。

ぼくにとって、通常のノートには、読んだり聞いたりした情報の要点を抑える、あるいは記憶のタグをつくる、といった役割があります。一方、フリーライティングには、読んだり聞いたりした情報というしばりを意識的にとりのぞき、頭の中に浮かんだ自分のアイディアにフォーカスしながら書くという、通常のノートとは大きくちがった役割を担っています。

そして、次に紹介する漠然としたアイディアのフリーライティングと同様に、このような場面で書いたものは、それだけで終わらないことがよくあります。読み直しながら書き加えたり、タイトルセンテンスを直したり、2つ以上の内容を合わせたりといった、本格的なアウトライン・プロセッシングのはじまりになることが、よくあります。

Scene 2. 頭に浮かぶ漠然としたアイディアを具体化し、自分のものにする

これこそ、フリーライティングがもっともパワーを発揮する場面です。無性に何かを書きたいという強い動機がある一方で、何をどう書くのか具体的にはっきりしていない状況です。書きたいものが、短い覚え書きになるのか、あるいは小さな論文やエッセイにまとまるのか、それとも長い論文や本にまで育つのか、イメージすらできていないことが多いかもしれません。こういう場面では、とにかく頭に浮かぶことをタイプしつづけ、その文字を見ながら新しく思いついたことをさらにタイプしていきます。論理構造を整えたくなることもありますが、その気持ちはひとまず横におき、浮かぶことをひたすらタイプしつづけます。頭に浮かぶことを書きだす作業と、論理を整備する作業を意識的にわけ、前者にフォーカスするのです。

最初から論理を整えようとすると、頭の中にある漠然とした考えよりも、論理のつじつま合わせに奔走してしまう可能性があります。ぼくだけかもしれませんが、論理の枠をつくりはじめると、形の定まっていないアイディアを無理矢理その枠に押し込めたり、切り捨てたりする感覚が強くなります。書きたいことが漠然としているときは、論理を練る作業はあとの楽しみにとっておき、まずは、タイプしつづけて、目に見える形の情報に翻訳するのです。ブレインストーミングと同じ考え方ですが、箇条書きにはしません。ある程度つながった文章を書くことに緩くこだわります。

こうすることで、漠然としていたアイディアを、人にも伝えることができる形に整えるための、最初の原型ができあがります。あとは全体の流れを眺めて、とくていの部分にフォーカスしたり、順番を変えたり、足りない部分を埋めたり、冗長な部分を削ったり、別の文章と合わせたり…。リライティングを繰り返しながら、他の人に見せても理解してもらえるよう、文章を育てていきます。ぼくは、たとえ自分用の覚書でも、大切と思うものについては、他の人が読んでも理解しやすい文章にする作業を、できるだけ進めるようにしています。フリーライティングは、漠然としたものを、とにかく一通り文章にする部分を担っています。

王冠を壊さずにそれが純金かどうかを証明しなければならなかったアルキメデスの「Eureka」のような場面も、多くがこういった状況ではないかと思います。取り組むべき問いは固まっているのに、その答えになかなかたどり着けない。仕方なく、ちょっと一休みとシャワーを浴び始めたら、ばらばらだった情報が一気にまとまって答えが見えた気がする。いや、たしかに何かが見えた。そんなときです。

Scene 3. 自分の本当の気持ちに気づき、自分のものにする

ジュリア・キャメロンは、フリーライティングのひとつの形 (だとぼくは考えています) として、とにかく毎日、時間を決めて書く作業を提案しています。そのプロセスを彼女はモーニング・ページ morning pages と名づけています。その方法を提案した有名な本のタイトルは、『Artist’s Way』[1]。芸術家としての夢を実現することを選んだ人に向けた本です。

芸術家が芸術家として生きるための鍵は、自分のつくりだす作品に対する自信です。しかし、新人の作品が最初から高い評価を得ることは、もちろんほとんどありません。自分のつくる作品に誰も見向きもしない、あるいは酷評されたりする中で、自分の作品が芸術という活動に貢献できるという自信を、どうやって育てればよいのでしょうか。失意の中で人生を終えたとされるゴッホやモディリアーニの例をあげなくても、その困難さは、ぼくたちにも想像がつきます。

人は、周囲の言葉に大きな影響を受けます。これは、言葉をコミュニケーションの道具として進化してきた人の長所でもあり、大きな短所でもあると、ぼくは理解しています。周囲があなたの作品を認めない中で、つい自分自身も、自分の作品はダメと考えてしまうのは、人という生きものとして仕方ない部分があると、考えています。

そういった中で、どうすれば自分の作品をつくりつづけることができるのでしょうか。キャメロンは、その答えが自分の中にあると考えています。絵を描きたい、こんな絵を描きたい、そうして描いた絵には、こんないいところがある。そういった声が、自分の中から聞こえてくるのならつくりつづけなさいと、アドバイスしています。そして、その自分の中の声を聞く方法として、毎朝決まった時間、心に浮かぶことを書きつづけるフリーライティング、モーニング・ページを提案しています。

ただ決めた時間書くだけで、すぐに自分の本当の気持ちを知ることはできません。しかし日々書きつづけることで、それが見えてくる。自分が欲するものが見えてくる。そうキャメロンは力説しています。彼女は、こうして書いた文章を読み直す必要はないとしています。ぼくは、たまに読み直すのも悪いことではないし、自分はこんなことがしたかったんだと、気づくこともあるかなと思っています。でも、先に紹介した2つの場面に比べると、読み直したりリライティングしたりする頻度は、とても小さいものです。この場合、フリーライティングのプロセスそのものが、ほぼ目的になっています。はじまりでもあり、ゴールでもあります。

キャメロンのこのメッセージは、芸術家以外の道を志す人たちの心にも響き、世界のベストセラーになったそうです。

Scene 4. 感情的になったとき、その気持ちに折り合いをつけ、自分のものにする

いうまでもなく、生活の中では、自分以外の人といっしょに作業をする場面が普通に起こります。家族のように気の合う人とでも、自分以外の人たちとのやり取りをとおして腹がたつこともあれば、悲しくなることもありますし、不安で仕方なくなる、ということもあるでしょう。こういった感情とうまく折り合いをつけてつきあう道具としても、フリーライティングが役立ちます。

たとえば、自分がむやみに悲しかったり、とても腹が立ったり、という感情に駆られていると感じたら、頭に浮かんでいることを、そのままタイプします。ぼくの経験では、20分間くらい書きつづけると、自分が何を悲しみ、どうしたいと思っているのか、あるいはどうしたいという気持ちなんかなくて、ただ悲しんでいるだけなのかなどを、ひととおり書きだすことができます。

自分の感情を書くことで、その感情が治まります。幸いにもというべきか、ぼくはこのようなフリーライティングをしたことが、ほとんどありません。でも、その効果が絶大であることを確信しています。もしあなたが、この効果に疑問をもつのなら、小さな実験をおすすめします。少しだけイライラするとき、その気持ちをタイプし読み直してください。「ぼくは今、すごくイライラしている」と書くだけでも十分かもしれません。文字になったものを見ながら心の中で読みあげるだけで、そのイライラした気持ちが和らぎます。たとえば「今日は試験監督なのに電車が3分も遅れて、ぼくはイライラしている」と書いたとしたら「3分で?」と別のぼくが笑い出します。

こういったフリーライティングでは、リライティングはほとんどしませんし、内容を要約したタイトルをつけることも、まずありません。タイプして文字にして、改めてその気持ちを読み直してみる。それで十分だと思います。この場合も、フリーライティングがはじまりであり、ゴールでもあります。

Scene 5. あまり書きたくなかった文章のかたをつける

気持ちが乗らない文章を書くときにも、フリーライティングは、とても便利です。その有効性については、この記事がエッセンスをまとめてくださっています。『アウトライン・プロセッシング入門』の著者、Tak.さんの2012年の記事です。要点は「何を書いていいかもわからないけど、とにかく書いてみよう…」といった心もちで書き始めれば、そのうちスイッチが入って、数千字程度の長さの仕事の文章なら書くことができますよ、ということだと理解しています。

ぼくは、研究助成の申請書などワープロでつくられた罫線や枠の中に書くのがとても苦手です。でも、まずアウトライナーでダァーっとフリーライティングし、アウトライナー上で文章を大よそ完成させ、それを枠の中に貼りこむようにしてからは何とか作業が進むようになりました。このTak.さんの記事の下には、ぼくの書いたコメントが残っています。この記事のおかげで気の向かない作業がはかどった、そのお礼の気持ちとして書いたことを覚えています。たしかこれは、Tak.さんとアウトライナーについて交わした、最初のやりとりです (なつかしい)。

Scene 6. 一発勝負のときに想定されるできごとを、あらかじめ自分のものにしておく

興味ある分野を対象とした学会の大会は、研究に携わるものにとってお祭りのようなものです。アマチュアもプロも関係なく、研究という活動の目標や夢を共有する仲間と、自分が取り組んでいる作業の成果を情報交換する、本当に楽しい場です。しかし、その楽しい場に参加したお返しとして、大会の運営を交代で引き受けます。もちろんボランティアです。今はすっかり慣れましたが、この大会運営役を引き受け始めた最初の頃は、かなりドキドキしました。

シンポジウムなどゲストスピーカーの講演、口頭発表にポスター発表、ラウンドテーブル、レセプションなどが3−5日間、朝9時頃から夜9時頃まで、複数の会場で同時進行するのがほとんどです。当たり前ですが、そのどれもが一発勝負なので、起こりそうなトラブルの対処策を、しかもそれらが同時に起こることも想定して準備する必要があります。その対処策を練るとき、ぼくは事前にシミュレーションを何度か、いくつかの形でやっておきます。そしてスタッフと、必要最小限そのシミュレーションの内容を共有するよう心がけています。

その最初のシミュレーションの道具として、ぼくは、フリーライティングします。大会の大事ないくつかの場面を流れを文章で書きながら、頭に浮かんだ問題点や対策を、一気に書いてしまいます。コツとしては、細かく書くことを厭わず、大会全部を網羅的に書こうとはしないことです。加えて、トラブル対処の基本的な方針をはっきり文章にしておくことです。

こうすることの利点は、そういった場面をスタッフと共有しやすいこと、そして数年後に、また大会運営を引き受けたときに再利用でき、さらに効率のいい新しい対策も考えやすいことです。この場合、フリーライティングしたあとのものを、多少リライティングする程度でやめています。大きなリライティングを、次の大会運営のときにするときもあります。

6.3. おわりに

以上の場面は、ぼくの経験をもとにしたものですから、そのまま皆さんの生活に当てはまるものではないかもしれません。でも、何かひっかかるものがあれば、ぜひそれをキーワードにして、フリーライティングしてはいかがでしょうか。こんなときにフリーライティングしてみると、自分にとって役立つのではないかな… といった感じです。

書くという作業には、書くという作業だけに収まりきらない、重要な機能があります。「書く」と書いてしまうと、どうしても書く作業そのものに意識がいってしまうので、その重要な機能にフォーカスした別の名前はないだろうかと考えたり、探したりしていました。今のところ、それに一番近い言葉は「アウトライン・プロセッシング」です。その言葉を、明示的に教えてくれたのはTak.さんの『アウトライン・プロセッシング入門』でした。アウトライン・プロセッシングとはどのようなもので、どうして有効なのかについて書くことは、フリーライティングの枠から大きくはみだしてしまうことなので、また別の機会にと考えています。ただし、その一番核になる要素はこの連載記事の「3. フリーライティングのためのガレージをつくる」と「5. 流れを乱さず流れをつかむ」で触れたつもりです。

アウトライン・プロセッシングは、書くことをとおして情報を自分のものにするための「わざ」だと、ぼくは考えています。そして今のところ、上にあげた6つすべてが、アウトライン・プロセッシングに含まれると考えています。そして、フリーライティングは、そのアウトライン・プロセッシングのはじまりを担っていると考えています。

今回のまとめ

フリーライティングは、日々出会う情報を自分のものにするプロセスのはじまりを担っています。フリーライティングが役立つ場面を、以下の6つに整理しました。

  • 読んだり聞いたりして出会った情報を、自分のものにする
  • 頭に浮かぶ漠然としたアイディアを具体化し、自分のものにする
  • 自分の本当の気持ちに気づき、自分のものにする
  • 感情的になったとき、その気持ちに折り合いをつけ、自分のものにする
  • あまり書きたくなかった文章のかたをつける
  • 一発勝負のときに想定されるできごとを、あらかじめ自分のものにしておく

書くという作業には、書くという作業だけに収まりきらない、重要な機能があります。その機能にフォーカスした言葉として、アウトライン・プロセッシングがあります。上にあげた6つの場面はすべて、このプロセスに含まれています。アウトライン・プロセッシングは、書くことをとおして情報を自分のものにする「わざ」だと、ぼくは考えています。フリーライティングは、そのはじまりを担っているのです。

  1. Cameron J. 1992. Artist’s Way. Putnam Book GP Putnam’s Sons, New York [2].
  2. 日本語訳: ジュリア・キャメロン. 2001. ずっとやりたかったことを、やりなさい. 菅 靖彦 訳. サンマーク出版, 東京.