gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


ルーシーとぼくたちの道具

さて、折りたたみキーボードと iPhone、『老人と海』、そしてコンテとスケッチブック。そこに共通しているのは、使う人の幸福感。あるいは、幸福になるのだという、たくましい意志のしるし。そのしるしの鍵になるものは、おそらく、熟練。

だだだだ、だだだと折りたたみキーボードを殴るように書く技は、1日では完成しない。あの厳しく激しい『老人と海』を楽しくのんびり読む技が、わずか1週間でできあがることはないだろう。

そして、道化師の横顔を、ピカソの視点を再現するかのように描く swing は、広告の裏紙に、お父さんの顔に直接手足をはやして描いたときからの、練習の賜物かもしれない。

イスラエルの歴史家であるユヴァル・ノア・ハラリの書いた『Sapiens』の最初に、人類誕生のきっかけが、物語りのように紹介されている。人類が最初につくりだした道具のひとつ、石器が生まれた頃の話し。

体重が20キロくらいの、小さなぼくらの祖先(ルーシーと呼ぶことにしよう)は、アフリカの真ん中あたりにくらしている。ある日、彼女の生まれ育ったサバンナで、雌ライオン (の祖先) たちが1頭のキリン (の祖先) を倒す。

キリンの肉を食べる大きな雌ライオンとその家族を、遠くの高台から眺めるルーシー。彼女が、今その食べものに近づくことは、もちろんできない。

やがてライオンたちは食べ終わるが、まだルーシーの番ではない。ハイエナやジャッカルの群れが、その残滓を食べるからだ。もう少し待つんだ。

そのジャッカルたちがいなくなったのを確かめて、やっとルーシーたちが、キリンの場所へ近づき始める。ライオンが倒したキリンの残滓の残滓は、たぶんほとんどが、あの大きな骨と皮だけ。

でもルーシーは、骨や皮についたわずかな筋肉や脂肪のかけらを探したりしない。手頃な大きさの骨を、身を隠してくれる薮の影まで運び、左手にもっていた尖った石の破片で、骨を割り始める。

力を入れ過ぎれば骨が割れる前に疲れてしまうし、怪我してしまう。力まずにでも素早く、骨の薄い場所を何度か叩く。その打音が少し変わったかと思うと、骨に裂け目ができ、そこには栄養価が高くておいしい?骨髄が見える。

手にした石の破片は、ちょっと時間のできたきのうの午後、別の石を使って尖らせておいた。刃の反対側は、彼女の手の大きさに合わせてにぎりやすい形にしてある。賢い彼女は、骨を安定させる台になる石も用意してあったかもしれない。

そして。キリンの大きくて硬い骨を石で叩くルーシーのまわりの空気は、スターバックスで折りたたみキーボードを叩く大学生の周囲のように、黄色くなっていたはず。あるいは、割れた骨から骨髄を取り出すルーシーのうしろ姿は、道化師を描く若者のように swing したかもしれない。

もしかするとルーシーは、無骨だけどやさしいボーイフレンドに、石器つくり方を教えながら、「ね、いい感じでしょ」なんて微笑んだかもしれないし、子どもたちに向かって「骨を割る道具をつくるのにぴったりの石がどこにあるか、よく考えてみて」なんて、いい先生をやっていたかもしれない。

ゴリラやチンパンジーたちの目を、見たことがあるだろうか。彼や彼女らのあの眼差しを見るたびに、知性とよばれるものが、何百万年か前にはもうこの地球上に生まれていたのだと、ぼくは考えてしまう。

では、人類はどこで人類の道を歩き始めたのか。その最初に道具があり、それを偶然ではなく意志をもって熟練しながら使うことに、とんでもない幸福感をもつルーシーがいたのではないかというのが、ぼくの仮説。

Humanity は道具とともにある。