on outline processing, writing, and human activities for nature
野外調査をしている岩手でのできごと。
フィールドで顔なじみになった70代半ばの男性と出会い、社会的距離をとりながら話しが少し盛り上がる。
彼はクリスチャンで、いつもキリスト教に関係した本をもち歩き、「しごと」として障害者支援に携わってきた人。
その彼から、「きみは何のために田んぼの生きものの研究してるの?」とストレートに訊かれた。
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こういうときのために、用意したことばはある。
ベストかどうかは別として、分野の近い研究者や分野のちがう研究者、しごとがら出会うことの多い農家の人たち、田んぼも生きものも実物をあまりみたことのない都会ぐらしの人たち、相手によっていくつかのことばを考えてある。
多くの人に興味をもってもらいやすいよう、相手によってことばづかいや説明する情報の組み合わせを変えるのにも、(まだまだだけど)それなりに慣れてきた。
でもこの彼の質問に対しては、ことばにつまってしまった。
今まで使っていたことばが役立たずに見えた。もう一階層をのぼらないと、彼の質問に答えられない気がした。
あと、障害者のための活動を日常としてきた彼の前で、カッコつけようとしているちっさい自分に、ちょっとがっかり失笑したのもある。
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生きものが好きで仕方ないから、田んぼや畑と森がつくる風景をみるといつもジンとしてしまうから、そして、田んぼや畑で働く人たちをみるとうれしくなるから、という理由が出発点であることに、もっと胸をはっていいと思う。
田んぼの生きものたちのつくるシステムの理解が、ぼくが関係している生物学の問いの解決にどう役立つのか、そしてフィールドのある東北や日本や東アジアの社会にどう貢献できるのか、という説明も妥当なものだと思う。
でも、なぜか彼の前では、そうじゃなくて、もっと大きなところからひと言で答えたくなってしまった。おそらく彼も、それを望んでいたのだと思う。
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それ以来、今のぼくがやるフリーライティングのテーマのひとつは、こうした彼のような人にも自分の「しごと」を胸はって説明できるような、自分のことば探しである。