gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


ぼくたちに生きる自覚はあるか

大衆の反逆』、1章「密集の事実」から5章「一つの統計的事実」までを読みました。

いちばん印象に残っているのは、4章と5章に出てくる、「生」についての仮説のような言葉です。

生とは、環境と選択の2つの要素でできている。

ぼくたちが意識する環境とは、それぞれの可能性、つまり自分が選べる行動の選択肢の集まりである。

生きるとは、選択肢の中で、自分がこうありたいという姿を決断しなければいけないと自覚すること。

そして今(ガセットがこの文章を書いた20世紀初め)、人々の行動の選択肢はとんでもなく大きなものに広がった。

たとえば18世紀と20世紀、それぞれの貨幣価値で同程度の財力をもつ人がいたとする。

この二人のうち20世紀の人が買うことのできるものは、18世紀の人とくらべようのないほど多く、おそらく無限に近い。

あるいはたとえば、20世紀最初に登場したアインシュタインの物理学は、昔からのニュートン物理学がひとつの屋根裏部屋でしかないような、広大な空間で展開されている。

この知の空間の発展は、科学的な正確さの内なる発展がもたらしたものだ。

この無限の選択肢を前に、ぼくたちは、今の時代に最高の「高み」を感じながら、無限であるが故、その将来に確信がもてなくなっている。

1章の最初にある大衆の定義も、興味深いものでした。

大衆とは、社会を構成する大多数を占める質をもった人たち、つまり平均的な人たちのこと。

(統計の平均値が示すように)大多数を占める人々の質が平均的な質になる。

社会は国家のような制度で固定された単位ではない。

前回の記事に書きましたが、ガセットの言う社会はダイナミックなもので、同じ地域にくらす緩やかなネットワークで結ばれた人たちの集合、といったイメージでしょうか。

そして、この大衆の定義からつづいてすぐ、本題となる問いが1章の最初に出されています。

かつてのヨーロッパでは、この大衆が、社会の前面に出ていなかった。

しかし今(20世紀初め)、大衆が、たとえば気持ちのよい時間帯にカフェに集まったり、自然を愉しむため公園や郊外の森や草地、海岸などに集ったりするようになった。

そして、知識をもとめて本を読み、政治的な力をもとめて運動するようになった。

この人々は、いったいどこから来たのか。

その答えの案は、5章に出てきます。

19世紀のわずか100年のあいだに、ヨーロッパ全体の人口は1億6千万人から4億6千万人にまで増えた(3倍近く!)。この人口増加が、大衆を生み出したのだ。

そして今、(大衆であるぼくたち自身も)大衆の支配下に生きている。それも完璧な支配のもとで生きている。

だからこそ、大衆化した人々を、根底から理解する必要がある。

この、社会の多数を占める平均的な人々が社会全体の行動を決めているという見方が妥当とすると、そこから大切な問いが導かれます。

(ぼくたちのような)平均的な多数の人々に、ガセットのいう生きる自覚、つまり、自分がこうありたいと決断する自覚はあるのか。

しかも、未だかつてない広大な選択肢をもち、その扱いにとまどっているぼくたちに、そんな決断をする覚悟をもつことはできるのか。

これから先の章で、ガセットはどのような答えの案を展開してくれるのでしょうか。

少なからず、ドキドキしています。