gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


画一化と多様化は並行して進む

大衆の反逆』を読んでいます。佐々木隆さんの訳です。まずは「フランス人のためのプロローグ」を読み終えました。

読みやすい日本語訳とも相まって、読みながら常に心地よさを感じる文章でした。

その理由のひとつは、著者がこのプロローグ全体をとおして、人の社会(や文化)を動的なものとして捉えているからと、今のところ考えています。

たとえば、社会についてつぎのような説明があります。

社会は、人が共存する(人がともに生きている)ことから必然的に生じるものであり、たとえば同じ地域で隣り合って存在する社会の特徴は、それぞれの社会ごとに固有化が進みながら(つまり地域全体の社会の多様化が進みながら)、それと並行して社会どうしの画一化も進む。

多様化と画一化、どちらかだけではない。

このダイナミックな社会観は、生態学(生物どうしのネットワークがテーマのひとつ)や行動生態学(社会の進化もテーマのひとつ)を学んできたぼくにとって、馴染み深いものに感じます。

多様化と画一化が並行して進むとはどういうことか、とても興味がありますが、このプロローグでは、まだくわしく説明されていません。社会をつくる要素どうしのネットワークのパターンが関係しているのかなと漠然と考えていますが、どうでしょうか。

本文を読む楽しみがひとつ増えました。

心地よさを感じたもうひとつの理由として、言葉という道具を過信せず、言葉をとおした人どうしの理解には、ある程度の限界がある、という言語観も挙げられます。

言葉が効果的に機能する範囲(地理的な範囲、文化、時代、今であればオンラインのネットワークで情報交換している人の集まり)は意外と狭い。だから、文章はたとえば人類全体に向かって書かれるのではなく、ある特定の人たちに向かって書かれることで、うまく機能する道具になる、という姿勢です。

おもしろかったのは、この言語観で書かれたであろうスペイン人の著者が書いた文章が、10年のうちにスペイン以外のヨーロッパの国々で広く読まれ、共感されたこと。そして、その事実に対する著者の意見。

この本が、ヨーロッパの人々に広く受入れられたのは、それまでにはなかった過度な(?)ヨーロッパ「画一化」の徴(しるし)であり、それこそが、当時のヨーロッパが抱えている課題ではないか。

今(というか、インターネットが広がったここ30年前くらいから)ぼくたちが、ばくぜんと感じている情報伝達速度と範囲が一気に広がった結果として生まれるだろう「画一化」に対する危機感と、似ている気がします。

1926年に書かれた文章がヨーロッパで広く読まれるようになり、新しくフランス語の翻訳が出版されることが決まった1937年に書いた「フランス人のためのプロローグ」。この時間差があってこそのメッセージと理解しました。

ページ数だけでなく(50ページ!)、内容の豊かさも、一冊の本に近いものと感じています。