on outline processing, writing, and human activities for nature
与えられた作業を粛々と終わらせる作業をつづけていると、ぼくは生きる元気がなくなります。与えられた仕事だらけになるとブルーになるのは、たぶんぼくだけではなく、それが人間というものなのだと、テキトーに予想しています (笑)。
ぼくの場合、与えられた作業だけで夜になってしまう日が、三日もあれば充分でしょうか。気分を変えるために映画をみたり、珈琲飲んだりするくらいでは、曇った心が晴れなくなります。
締切がいつも気になり、与えられた作業を効率よくこなすことばかり考えるようになり、心を覆う雲はさらに分厚くなってしまいます。
こうした与えられた仕事は、文字どおり他の人から任された仕事の場合もありますし、自分がかっこつけて引き受けた仕事の場合も含んでいます。その仕事をぼくに与えたのは、仕事仲間だけでなく、過去の (かっこつけの) 自分であることも少なくありません。
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おっさんになった今、そういうブルーになってしまう日々を少なくするコツを、多少は覚えました。かっこつけて仕事を引き受ける回数を減らすのもそのひとつ。
かっこつけてるのか、そうでなく自分が心からその仕事をしたいと望んでいるのか、見分けるのが難しいので、そうした仕事がゼロにはなりません。でも、それを見分けるワザもいくつか身につけました。これについては、また別の機会に。
で、今回説明したいのは、自分の小さなアイディアをカタチにする時間を大切にする、というあたり前のような、何だか分かったようで分からないようなワザのお話しです。
それはたとえば、与えられた仕事がたくさんあるときでも、きのう閃いたばかりのアイディアや、何年も育ててきたアイディアを、現実のカタチにする時間を20分か1時間、えいやととってしまうこと。
そのために約束した仕事が20分か1時間くらい遅れることになってしまうけど、それは「ごめんなさい」してしまう。だって、20分か1時間なのですから。
その「自分の小さなアイディアのための20分か1時間」をとりながら、その中でアイディアがリアルなカタチに変わるプロセスをできる範囲で満喫し、「自分の小さなアイディアのためだけの20分」を大切にする心もちも育てるのです。
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小さなアイディアは、小さな創造性と呼んでもいいかもしれません。たとえば、きのうの午後にみつけてちょっと心動かされたあの場所の風景をスケッチしてみるとか、それを文章にしてみるとか。
あるいはたとえば、この一か月、趣味でつくってきたコンピュータシミュレーションの新しい実験デザインを今朝思いついたから、それを実装してみるとか。
あるいは、半年前からやりたいなと思っている畑づくりのために、春に種をまく野菜の種類を3つにしぼるとか。
ぼくだけかもしれませんが、そんな自分のアイディアを大切にする行動を繰り返していると、心にかかっていた灰色の雲が、あるタイミングですっと溶けてなくなります。歩きながら地面を踏んでいるだけでも、遠くの電柱がだんだん近づいてうしろに流れていくだけでも、うれしくなってしまいます。
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人はヒトになるずっと前から、社会をつくって生きています。その頃から地球に生まれてきた人 (やその祖先) はみんな、与えられた仕事をもっています。この場合の「仕事」は、広い意味で使っています。
数百万年前、アフリカあたりにいたルーシーも見栄を張って、友だちみんなの石器づくりを引き受けてしまい「あぁ、なんてこったい!」と、エチオピアのアワッシュ川沿いの白いガケの岩をけっ飛ばして、「あイテテテ..」なんてこともあったかも。
人は、与えられた仕事なしで、約束の仕事なしで、日々を過ごすことはできないのではないかと、ぼくは予想しています。役割分担が、社会の大切な要素なのですから。とすると、与えられた仕事の多さに人やヒトやその祖先が悩むのは、キリンが「なんで自分の首が長いんだろう」と悩むのと同じことかもしれません。
とすれば、その長い首を誇りに思いながら、その長い首を使いこなしたり、愉しんだりするワザを磨くのがいちばんですね。
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そのワザを磨くための鍵は、与えられた仕事を素早くこなすことも大事かもしれませんが、その速度は多少遅いままでもいいから (ごめんなさい)、 自分の小さな創造性をカタチにするワザを磨くことではないかと、ぼくは考えているワケです。
では、なぜ「創造性」なのか。
創造性は、与えられた仕事と同じくらい、人そのものの大切な特徴ではないかと、ぼくは考えているからです。もう少しくわしくいうと、創造性を育てる瞬間に人は幸せを感じるように進化した。そのときから、ヒトは人としての歴史を歩むようになったのではないかと予想しているワケです。