on outline processing, writing, and human activities for nature
たしか5年前、自分のために書く時間を1日に10分以上とろうと思いついた。フリーライティングという考え方に出会ったことが、そのきっかけだったかもしれない。
自分のために書くとは、他の人にとっての価値を考えずに書く文章。頭に浮かぶことをすべて書くのでもいいし、自分の心の声に耳を傾けながら書くのでもいい。
決心した当時は、アウトライナーに慣れてきた頃だったので、とりあえずは Mac (当時はたしか MacBook Air 11") に向かいながら、そういった文章を日々書く時間をとるようにした。ただ書くだけで、読み直すことも義務ではない。
最初は、項目名にフリーライティングであるという記号 (fw) と日付や書き始めた時刻だけを書いた。その内、内容を要約した文章を項目名につけることが増えた。そうすることで、書いたことを自分のものにできる感覚があったからだ。
この1日10分以上というゆるいしばりは、なまけもののぼくにも合っていたらしく、今もつづけている。もちろんぼくだから、完璧に毎日というワケではないけど。このプロセスをとおして学んだことの一部は、「はじまりのフリーライティング」である程度整理したつもり。
大切なことは、自分のために書く時間を、わずかでいいから日々もつこと。
*
そしてそろそろ、このプロセスがそれなりに自分のものになった気がしている。
つまり、きばらなくてもそうしているし、しんどくても、アウトライナーがなくても、コンピュータやスマートフォンがなくても、万年筆と紙がなくても、あるいは目をつぶっていても、とにかく自分のために書けるような感覚。
そこで、きのうフリーライティングしながら考えて、新しい作業も始めることにした。週1時間でいいから、生きものを見るためだけに歩く時間をとる。
データを採ってもいいし、採らなくてもいい。そのあいだに気づいたことをフリーライティングしてもいいし、しなくてもいい。外を歩きながら、出会った生きものを見るためだけの時間。朝に20分歩くことを3日間やってもいいし、1時間歩くのを1日だけやるのもオーケー。
なぜ生きものを見る時間なのかというと、ぼくにとって、自分が気づいていないこの世界の情報を与えてくれる一番のプロセスであり、書くことと同じように生活の一部に感じているにも関わらず、仕事などに追われてつい後まわしにしてきたものだから。
そして、何となくなんだけど、10年後や20年後にやってきてよかったなぁと思えそうな、自分のアイデンティティを育てるのに関係しそうだから。
*
もちろん、勘違いの可能性も大きいし、一か月後に、ごめんなさいもう全然やってませんよーって言ってる自分も浮かぶんだけど。ま、それもぼくということで。