on outline processing, writing, and human activities for nature
ほんとうを言うと、幸福も細切れに分けられているものなのだ。気分の善し悪しはすべて、一時的なからだの出来事によるものだが、それをわれわれは異様に拡大して、そのことに神託のような意味を与えてしまう。そのような気分が最後に行き着くところが不幸である
これは、アランの『幸福論』の冒頭にあるセンテンス。アランは、およそ100年前のフランスの高校で、哲学を教えていた人です。
たとえばある道具に出会い、今まで苦労してやっていたことがかんたんにできたとき、ぼくたちはその道具に特別な意味を与えたくなります。
「あの**(道具の名前)との運命の出会い」
「その結果、ぼくの人生は大きく変わった」
ぼくの場合、たとえばアウトライナーについてそう書きたい瞬間が何度もありましたし、これからもあるでしょう。プログラミングを覚えて、それまでできなかったシミュレーションや統計解析をやるようになったときも、そうでした。
ある道具を使いこなせるようになって、それまでできなかったことができるようになる。あるいは、5時間かかっていたことが10分でできるようになる..。そういう体験をするほど、その道具に対して特別な意味をリアルに感じるようになります。
そして、こう人に伝えたくなります。
「この道具なしの人生なんて考えられない」
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ここでいう道具は、少し広い意味で使っています。
アウトライナーや万年筆のようないわゆる道具だけでなく、たとえばノートをとる、情報カードでデータベースをつくる、日記をつける、といった作業も入りますし、アウトライナーを使ったタスク管理のような技術も含みます。
きのうまでできなかった(やりとげるのが難しかった)ことが、ある道具のおかげでできる(よりかんたんにやりとげられる)ようになる。
だからその道具といっしょなら、今まで解決できなかったあの問題も解決できそうだ。その道具を使いこなしているあなたなら、具体的なやり方が頭に浮かぶかもしれません。
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でも、そうはならないときがある。いやむしろ、希望と遠ざかるときもある。いろいろな道具を長く使ってきたあなたなら、そういう瞬間が(確実に)やってくることも身をもって知っているのではないでしょうか。それはなぜか。
ぼくは、その理由のひとつとして、アランの言うように、ぼくがその道具といっしょに新しいことができたのは、道具を使ったからでもあるけれど、偶然のおかげだった部分も少なくないから、と予想しています。
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ぼくがここで偶然と呼んでいるのは、難しいことではなく、ぼくたちが無意識のうちに小さく見積もってしまう傾向のある、ぼく以外の人や生きものや生きものじゃないものたちがつくりあげている部分。
たとえば、風邪をひく前のぼくならアウトライナー使って軽々一時間で書き上げられた原稿も、(旧型?)コロナウィルスのせいで発熱したぼくにとっては、アウトライナー使っても一日ではできない可能性が高い。
(旧型?)コロナウィルスに感染する、という分かりやすいことがなくても、ぼくたちが知らないいくつかの偶然の重なりで、きのうはあの道具といっしょにできたことが、きょうはなぜかできないこともある。
そうした偶然の効果は、ぼくたちが思うよりも、たぶんとても大きい。
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この記事を読みました。
手帳という道具の価値と使い方について、分かりやすく元気づけられる文章を書きつづけてきたこの記事の著者が、こうした文章を書かれたことに大切な意味があるような気がしています。
ここで書かれている道具(この場合は BuJo)への姿勢は、偶然を大事に思う気持ちの反映なのかもしれない、と勝手に考えました。
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ぼくは道具をめぐる話しが大好きですし、道具を大切にしながらその道具と長く一緒に歩むような生活を送っている人たちの姿こそ、人間がもっとも人間らしい風景ではないかと、感じています。
でもその前提として、偶然をあなどらず、偶然の嵐の中で自分のできる選択をつづけるしかないという覚悟を育てつづけることが、道具をかっこよく使いこなすより何十倍も大切なのだと、考えているワケです。