on outline processing, writing, and human activities for nature
ぼくが幼稚園に入って間もなく、瀬戸内の小さな島で祖父と暮らしていた祖母が倒れ、入院した。
看病のため病院へ通う母といっしょに、ぼくも毎日のように病院へ行くことになり、幼稚園にはほとんど顔を出さなかった。
だから、ぼくのまとまった記憶の始まりは、病室のベッドや白いシーツ、長い廊下に響くスリッパの足音である。
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岡山の大学病院で何度か大きな手術をしたあと、祖母は四国の海辺にある、多度津という小さな町の病院へ移った。
その二階にある祖母の病室とそこからつづく廊下、一階の待合室と看護婦さんたちの待機する部屋、そして病院のバックヤードや道を渡った反対側に広がる空き地 (とても広く果てしない草原のように感じた) が、ぼくの遊び場になった。
その後、シャイな小学生になったぼくからは想像できないのだけれど、待合室に座っている人たちの前で、まずテレビを消して雑誌か何かを置いておくテーブルの上に立ち (みんなテレビなど観てる場合ではないですよー)、何やら前口上をひとしきり話してから (みんなぼくが歌いますよー)、ニセのマイクを手におどりながら歌った記憶もある。
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小さな病院だったので、看護婦さんたちの数は5人より少なかったと思う。中でも若い看護婦さん二人と婦長さんは、ぼくの話しをよく聞いてくれた。
その若い看護婦さんというのは、小柄なYちゃんと大柄なMちゃんの二人。やさしい婦長さんはぼくからみても忙しそうで、たまに話しのできる少し特別な存在だった。YちゃんやMちゃんも婦長さんがいると、少し気持ちを引き締めているように見え、仕事の上で人を尊敬するとはどういうことかをぼんやりと教わったように感じている (その後ぼくが脚色した記憶かもしれないけど)。
Yちゃんは明るくて、いつも早口で話しながらまわりを笑わせるような人。仕事しながらぼくとの遊びに適度につきあいつつ、手を変え品を変え、おもしろい話しをしてくれた。
Mちゃんはのんびりした雰囲気で、ゆっくり話す人。ぼくが何だかいっぱい話すことをていねいに聞いてくれることが多かった。
ぼくから見て、YちゃんとMちゃんはとても仲のよい友だちどうしのように見え、ぼくにとって、YちゃんとMちゃんは自分の友だちのように感じていた。
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そんなある日、Mちゃんがいなくなった。
たしか、もう外が暗くなった冬の夜。雨が降っていたかもしれない。みんながざわざわしている中、Yちゃんが、傘をふたつもって病院の入り口から走るように出て行った。
ちょっと怖そうな顔をした院長先生 (一度だけ診察室に入って話しかけたことがあったし、きらいじゃなかった) と、静かに話す婦長さん。
母が、院長先生と婦長さんから話しを聞いてからぼくのそばに戻り、ちょっと困った顔をしていたら、婦長さんがやってきてぼくの目線にまでしゃがみこんで説明してくれた。
Mちゃんがいなくなってしまった。Mちゃんは、彼女の大切な人といっしょにいてきっと元気なのだと思うけど、連絡がつかないからYちゃんたちが探しにいった、という内容だったと思う。
今のぼくのおっさん的言葉にすると、Mちゃんは彼と駆け落ちしたのだ。駆け落ちするということは、そうするだけのワケがあるのだろうけど、くわしく訊かなかった。オトナの中で遊ぶことの多かったぼくは、そういう変な気遣いだけはする子どもになっていたのだと思う。あるいは、質問するほど状況を理解できていなかった可能性もある。
その婦長さんの話しを聞きながら、病院の入り口そばで見かけた、Mちゃんの彼のような人のことを思い出した。背が高くて少しコワモテな感じ。早めに仕事を終えて帰ろうとするMちゃんに、婦長さんとYちゃんが声をかけ、Mちゃんは照れ笑いしていた。
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そして、Mちゃんからもらった戦車のプラモデルのことも思い出した。
それはドイツのタイガー I の大きなプラモデルで、キャタピラーの細部までしっかり作り込まれていた。Mちゃんはうれしそうに、ぼくとYちゃんを病院のバックヤードへ呼び、タイガー I を走らせてくれた。
そしてぼくは、ほぼ何も考えずに、ほんとはすごく欲しいと思ったわけでもないのに、その戦車が欲しいと言ってしまった。
Mちゃんはぼくの方を見てからうーんと少しだけ考えて、その戦車をぼくに手渡してくれた。Yちゃんは少し表情を曇らせ、あなたがもっていた方がいいのではないかと、Mちゃんに話しかける。Mちゃんは、また少しうーんと考えて、いや自分がもってなくてもいいとYちゃんに話したあと、ぼくの方を見て笑った。
そのやりとりをみて、このプラモデルがMちゃんにとって特別の意味をもつものだと何となく理解できたのだけれど、なんて言えばいいかわからず (あと、本当にこの戦車がかっこよかった..)、Mちゃんに返すことができなかった。
そのプラモデルが、彼といっしょにMちゃんが選び、彼と組み立てたものであることは、Yちゃんがあとから話してくれた。
それから、何度もチャンスがあったのだけど、ぼくは戦車をMちゃんに返さなかった。そのことが、Mちゃんがいなくなったことと重なり、祖母の部屋に置いてあるタイガー I を見ながら涙がでてきたことを、何となく覚えている。
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その数週間後、Mちゃんはひとりで病院に戻ってきた。やはり、雨の降る夜だったと思う。
院長先生はいなかった。婦長さんとYちゃん、そしてもうひとり、たしか年配の看護婦さんがMちゃんを両側とうしろからそっと支えるように気遣いながら、でも嬉しそうにいそいそと、仮眠室 (だったと思う) へMちゃんを連れて言った。
そのときのMちゃんの顔は悲しそうでもあり、でも、ほっとしているようにも見えた。その雰囲気から、Mちゃんは、ワケありの彼のところからぼくたちのところへ戻ったのだと思った。
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それから。YちゃんはいつものYちゃんのままで明るく冗談を言い、Mちゃんも最初は照れ臭そうにしていたけれど、以前のように仕事しながら、ぼくの遊び相手や話し相手をしてくれるようになった。
もらったプラモデルをMちゃんに返すべきなのかどうか、ぼくは決められなかった。おっさんになった今なら、婦長さんやYちゃんに相談した上で自分でMちゃんの気持ちを訊くだろうけど、それができなかった。
そしてタイガー I を走らせるたびに、雨の中帰ってきたMちゃんの顔が浮かび、何だか悲しい気持ちになった。
やがて祖母が退院して島にもどり、何年か経つうちに自宅のおもちゃ置き場の中心に置かれた戦車は壊れて動かなくなり、遊びにきた近所のYくんがそれをえいやとぶん投げてバラバラになったとき (もちろんぼくは怒って、けんかになった)、もう二度と人からおもちゃをもらったりしたくないと、思ったことを覚えている。
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そのタイガー I のプラモデルは、今どこにも存在しない。
でも、Mちゃんをめぐるできごとと、おもちゃ置き場の中心に置かれた戦車の思い出は、ぼくの記憶の始まりの、大きな部分を占めている。