gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


故郷としての病院

記憶の始まる年齢は、人によってちがっているとぼくは思う。

小学生になる前のことをよく覚えている人をたくさん知っているし、中学になってから記憶が始まるという友人も少なくない。ただ、多くの人に共通しているのは、そこに懐かしさだけではない何かを感じているということだ。

ぼくのまとまった記憶が始まるのは、4歳になった頃。そこが、記憶の断片が集まり繋がり始める境界線。

 

* * *

 

ぼくが4歳になる数か月前の春、父と母とぼくは、多度津という四国の小さな港町にある平屋建ての借家から、山あいの村にある、室町時代からつづいてきたお寺へ引っ越し、父は念願の住職になった。

その引っ越しが終わってすぐ、瀬戸内の島にある、別のお寺で忙しく暮らしていた祖母が倒れ、岡山の大学病院に入院した。

四国の山あいからその病院までは、鉄道とフェリーを乗り継いで、半日くらいの距離。母は祖母の世話をするために岡山へ通い始め、ぼくも幼稚園へ行かずに、母に連れられて祖母の病院を訪れていたらしい。

だから、ぼくのまとまった記憶の始まりは、大学病院の大きな病室のベッドや白いシーツ、長い廊下に響くスリッパの足音である。

手術を繰り返していた祖母と同じ病室かそのとなりに、画家として生計を立てる男性がいた。術後、祖母のベッドの枕元に小さな絵が飾られ、この絵はあのおじさんが描いたのだと、母が教えてくれた。

森の中を流れる川を描いた絵で、なぜだか懐かしい気がした。そして、ぼくはここへ行ったことがあると思うと話しかけたのが、そのおじさんと仲よくなるきっかけだった。

言葉は覚えていないのだが、静かで落ち着いた声の質は覚えている。ああ、この人はやさしい人だと思ったことも、はっきり記憶している。彼のベッドの脇で話しをするうちに椅子に登り、手招きされてベッドの上に座った。それから、今思うとコンテのようなものを手渡されて、大きな紙に絵を描いた。

何を描いたのかは覚えていない。ただ、そのおじさんがとても喜んでくれた。本当に喜んでくれた、とぼくは感じた。

そして、それからしばらくのあいだ、おじさんのベッドの上で話しながら絵を描くことが、ぼくにとって最高の楽しみになった。今日おじさんとこへ行ったらあれを描くんだと、母に大きな声で話しながら病院の階段をのぼった記憶もある。

しかし、その幸せな時間は、突然終わってしまう。

いつものように病室へ行き、ベッドのそばに椅子を運ぼうとすると、おじさんがほんの少し困った顔をした。どうしたんだろうと椅子をもったままのぼくを見て、たぶん検診に来ていた若い医師が話しかけてくれたのだが、理解できなかった。

1週間後、おじさんのベッドのある部屋へ走って行くと、そのベッドが空になっていた。母や祖母が、理由を何度も話してくれたのだが、やはり理解できず、もうおじさんとは今までのように会えないということだけは、分かった気がした。

それから半年が経ち、祖母もその病院を出て多度津の個人病院へ移った。そこに1年半入院したあと、当初余命2年足らずと診断された祖母は元気になり、ぼくが小学校へ上がる頃には島へ戻った。

完治にはほど遠かったらしいが、それから15年にわたり、祖母は祖父と一緒にお寺の仕事をつづけた。海を見下ろすお寺の部屋を使った民宿も再開し、神戸や大阪にある福祉施設の人たちを定期的に島へ招待するなど、過疎化が深刻化する島で町おこし活動も立ち上げたりした。

どんなことも自分で決め、自分で実行する女性だったように覚えている。

ぼくのような孫たちの多くは、夏休みや春休みの日々を祖父母のすむ島で過ごし、島の子どもたちや民宿に泊まる家族やグループにまざって、朝から夜まで島の生活を満喫した。

病院で絵を描いて遊んだおじさんがなぜいなくなったのか、小学生になってからも考えることがあった。でも、答えを聞くのが何となく怖くて、祖母や母には訊かなかった。

そしていつの頃からか、おじさんはきっと亡くなったのだと思うようになっていた。

だから、ある日ひょっこりと、そのおじさんが祖母を訪ねてきたときには、本当にびっくりした。夏休みも終わりに近づき、にぎやかなクマゼミが消え、ツクツクボウシの声がこだまする、静かな日だったと思う。

花崗岩質の庭の硬い地面に穴を掘って遊んでいると、うしろの山門の方から、聞き覚えのある静かで落ち着いた声が、ぼくの名前を呼んだ。立ち上がって振り返ると、髪が少し灰色になったおじさんが、大きな四角い紙包みを脇に抱え、笑いながら立っていた。

ぼくは左手に、先の曲がってしまったスコップを持ったまま、何かを言ったかもしれないし、しばらくだまったままだったかもしれない。

それから急いで、「大玄関」と呼んでいる板の間広間のある入り口へ走り、祖母を呼んだ。祖母は、その広間の奥にある居間に置いた大きなベッドに座り、たしか本を読んでいたと思う。

祖母とおじさんは、再会を心から喜んでいるように見えた。やや曖昧な記憶だが、おじさんはあのとき無事に退院し、しばらく自宅療養したあと、家族といっしょに山あいの家へ引っ越し、やはり絵を描いているとのことだった。絵だけでは食べていけないので、他の仕事もしていると話したかもしれない。

マメに手紙を出していたらしい祖母は、おじさんが引っ越したことも、その場所を彼が気に入っていることも知っているようだった。ひとしきり話して祖母が2杯目のお茶をすすめると、おじさんは座布団の横に置いた紙の包みを開き、自宅から歩いて数分の場所にあるという、森の中からみた大きな川の絵を祖母に渡した。

祖母は笑み満面で受け取り、祖母のベッドから見える場所に飾ることにした。

ぼくは、ただとなりに座って、祖母とおじさんのやりとりを聞いていただけだったけど、結構ご満悦だった。もう聞くことができないと思っていた、あのやさしい声を聞くことができたのだから。

ただ、日帰りのため足早に去ったおじさんに、ぼくは今も描くのが好きだと伝えられなかったのは、ほんの少し心残りだった。

 

* * *

 

ぼくは、小学校へあがる頃にはもう、絵を描くことが好きであることを自覚しており、時間があればとにかく描いていた。よく覚えていないのだが、授業で描いた絵が何かの賞をとった記憶もある。でもそんなことよりも、とにかく描くことが楽しかった。

その気持ちは、すっかりおっさんになった今も、ほとんど変わっていない。だから、あなたのアイデンティティは何かと訊かれたら、ぼくは「描くことだ」と答えるだろう。

そして、記憶の始まりにある、ぼくの絵を喜びとともに迎え入れてくれたおじさんの静かに落ち着いた声は、ぼくが描くことを好きになる大切なきっかけだったかも知れないと、考えることがある。