on outline processing, writing, and human activities for nature
ぼくは、神奈川にくらしています。今住んでいる場所も大好きなのですが、それ以外にも好きな場所が、神奈川にも何か所かあります。
*
そのひとつが葉山。高校を卒業するまで、よくひとりで長逗留した祖父母の住む瀬戸内の島や、奥さんの調査の手伝いで訪れる伊豆諸島の島と似た空気を感じます。
あと、見かけはまったくちがうのですが、スリランカの大きな tank(五百年から千年前につくられた貯水池)のほとりにある、ポロンナルワ Polonnaruwa という遺跡とジャングルと今の町がモザイクになった場所を思い出すこともあります。
そこにいる人の多くが、そぞろに時間を過ごしながら、その心もちを楽しんでいるように見える。
避暑地だけどそうでもない(避暑というか泳ぎに来ている人はたくさんいる)、観光地だけどそれだけではない(もちろん観光で来ている人がいる)。
あの空気はどこからくるのか。それは、人だけでも、町並みだけでも、自然だけでに説明できない何かがあるからだと、考えています。
*
その何かを手にする方法のひとつは、そこに住んでしまうこと。あるいは、住んでいるのと変わらないくらい、そこに通うこと。
でも、そうすることで、確実にその「何か」を手にすることができるかと言えば、たぶんそうでもない。
先日、奥さんが録画してくれた番組をいっしょにみていて、京都の山あいにある、小さな集落にくらす人の会話が出てきました(いい番組でした)。たぶん、その場所が好きになり、そこに引っ越してきた人として紹介されていた30代くらいの元気のいい人の会話です。
「こういう田舎の生活はスローライフとか言われるけど、ちっともそんなことない。雪かきも大変だし、やることは山ほどある」といった内容だったように記憶しています。
都会を離れ、田舎にすめばスローライフ(その意味を実はあまりよくしらないのですが)にくらせるかと言えば、そういう生活の一部を過ごすことができる場合もあるけれど、もちろん全然そうならないこともよくあるのだと、おっさん的経験から、ぼくもそう感じています。
*
今のところ、葉山や瀬戸内の島などで感じた空気は、その場所で時間を過ごそうと決めた人の時間の使い方の覚悟と、その使い方のオプションの幅を広げてくれる町とそれを取り囲む自然がつくるしかけの組み合わせなのかなと考えています。
たとえば「あぁ、いい風が吹いてるな」と感じたときに、いっしょに仕事してるHさんとの約束まで30分ある。じゃぁ、玄関に置いた自慢のカンパニョーロのペダルつけた自転車で森戸の磯へひとっ走りして、20分思いっきり泳いでこよう。
万が一仕事の約束に10分遅刻しても、あのHさんなら、「あぁ、暇だなぁ」とか言いながら、好きな昆虫標本づくりやりながら、待っててくれる。
そういう、人々の寛容さと自然の楽しさの組み合わせが地理的な按配の中で用意してくれる、日々の生活の中にある30分のオプションです。
大切なことは、その場所へ行けばいいものでもないけれど、そこに行かないと手にできないオプション。でも、もしかすると心がけ次第で、別の場所でも手に入れられるオプション。
それぞれの場所にユニークで、もしかすると葉山や瀬戸内の島以外の場所にも、その場所ならではのオプションがある。
人と人がつくった町とその町を育ててきた自然の共同作品。それは、そこにくらす人やそこを訪れる人たちの「努力」で育ちつづけるダイナミックなもの。
その奇跡のような、それでいて世界中の当たり前であり、普通にあるもの。
*
葉山の話から、なんだか風呂敷が広がり過ぎた気がします(笑)。
今、ぼくが興味をもっているのが、日々の生活の中の時間のオプションのつくり方。
そのひとつのヒントが、葉山の町の風景にあるのかなと考えた、というお話しでした。