on outline processing, writing, and human activities for nature
花巻の東側、旧東和村や旧小山田村、旧花巻市の東あたりは、ぼくが大好きな場所のひとつ。
あの広々と見渡せる風景。その多くは、農家の人たちが何100年にもわたってつくりつづけてきた田んぼや畑、草原や小さな森。
手つかずの大自然ではなく、人々が自然を使って生きるためにつくりつづけてきた地面。そこに暮らす人たちは、風景の一部でありながら、風景をつくる存在でもある。
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そのフィールドに、(ぼくが勝手に思っているだけかもしれないけど)友人と呼んでいいくらい心の距離が近くなった家族の営むベーカリーがある。パンを焼いているから「ベーカリー」と書いたけど、やはりこの店のファンの人たちに倣って「パン屋」と呼びたい。
そのパン屋の建物や庭のデザインには、多くの人を惹きつける何かがあり、ファンになった多くの人たちがたくさんの写真をオンラインで公開している。
大きな木でできたドアを開けると、ギィという音がしてカランカランとドアベルも鳴る。明るい窓に囲まれた奥はカフェになっていて、たぶん手製の木のテーブルやていねいに磨かれたように見える木の椅子が、黒板にフランス語で手書きのメニューボード、細かいところまでフランス的に味つけされたフランスの古い車(シトローエン2CVという車が多い)とブタのイラストの中に置かれている。
右手前には、昔のパン屋を思い浮かべるような木枠とガラスでできた棚に、焼いたばかりのパンがならんでおり、その奥が注文カウンター。パン棚とカウンターのまわりにも、2CVの模型や写真、豚の絵や置物が飾られている。聞こえてくる曲も、フランス語のものがたぶんほとんど。
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そう。このパン屋は、鎌倉や東京のベーカリーのように、トレーとトングをもって自分でパンを選ぶのではなく、カウンターの奥にいる店の奥さんに、欲しいパンの名前と数を伝えて、持っていったバッグにパンを入れてもらう方式。で、これがミソ。
だから、開店直後に行くと、先に並んだ人たちが奥さんに注文する声が聞こえてくる。
たとえば...
「パンゴーシュひとつに、バケットふたつ。あと、吾助どんに、でんしんばしら」
「きょうは、バケットとクリームパン。あ、田舎パンサンドも..」
という感じ。そして、ちょっと世間話しを楽しむ人も多い。それがまたいい感じ。
街のスーパーやコンビニの「待たせない」こと重視のレジとはもちろんちがうし、スターバックスなどのちょっとマニュアル的なお客さんとの会話(ごめんなさい)ともちがう。
パンを買いに来た人たちが、自分たちの(この一週間、一か月、ときには半年間の)近況をうれしそうに、ときには少し大変だったことを分かち合うように話すのを、うんうんと聞いているのが中心。
買いものに来た人たちの表情を見ると、この店にきてパンを買うプロセスも、その人たちにとって大切な時間になっていることが分かる。
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そのパン屋の焼くパンの種類は、鎌倉の似た大きさのベーカリーにくらべるとずっと多いけれど、総量は少ない。値段もたぶんひとまわりかふたまわりくらい安い。だからすぐに売り切れる日が多くて、9時開店で、10時にはほとんどパンがないことも割と普通。
そこに、たとえば車で5分から10分くらい離れた農家に住む人たちが週に一度、きまった日にお気に入りのパンをいくつか、買いに訪れつづけている。
あるいはたとえば、もう少し遠い20キロ南の北上や30キロ北の盛岡からやってくる家族もあれば、とても遠い相模原や東京あたりからの人たちもそれなりにいて、最初はちょっとびっくりした。
でも今は、遠くからわざわざ買いに来る気持ちも納得できるくらいこのパン屋の焼くパンはおいしいことを、ぼくも知っている。甘いパン(なぜか菓子パンとよびたくない洋菓子のような雰囲気)のたとえば中のクリームや表面に降られたパウダーの味が、また格別。
(ケーキやクッキーなどよりパンの方がみんなの生活に近いからと、パン屋を開くことにしたそうだ。でも、このパン屋のおっさんが焼いたマカロンをもらって食べたとき、ヨーロッパのマカロンの味がして、食べて半日くらい幸せだった.. )
他ではまず食べられないパンがここにはあると、胸を張って言える。このパン屋は、花巻や北上や盛岡、もっと遠くの家庭に、おいしいパンのある日々の生活の小さな贅沢を配っているのだ。
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さて、やっと本題(笑)。
このパン屋さんの、他にはないあのフランス的ででも気取ってない空間は、そのほとんどすべてが、手づくりでできている。無理しない人たちだから、家の柱や屋根からぜんぶ手づくりってことは、ないと思う。
家族中心の楽しい時間を送っているようにも見え、でも、家のものづくりや庭づくり、あるいはまわりで採れる木の実などから、店にくる人にふるまうジャムや一品もの(?)のお菓子をつくったり、そういう時間を積み重ねている。
そして、たとえば年末の休日は、どこかへ出かけたりせず、店のテーブルにワトコオイル塗ったり、今お気に入りの、フォルクスワーゲン Type 2 の絵を描いたり。
田んぼの広がる花巻の丘に違和感のない、でもフランス的な雰囲気という大きな流れをつづけながら、日々の出来事の中で生まれる変化も合わせながら、つくりつづける。たとえば Type 2 はドイツの古い車だけど、それをフランスのアニメーション作家シルヴァン・ショメの作品に出てくるような絵にして、飾ったりしている。
多くの人を惹きつけるあの空気は、こうした時間の結果なんだなとよく思う。小さな時間の積み重ねでできあがる手製の空間には、そうでないとできない何かがあるのだ。
ぼくの好きなパン屋は、ぼくの好きな花巻東部の風景の中に溶け込みながら、でもほどよく、自分たちを表現している。
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話しを花巻の風景にもどすと、そのパン屋の丘から見える田んぼや水路と、小さな畑や草原、森の風景のそれぞれの部分にも、そこにくらすそれぞれの農家の人たちが繰り返しつづけてきた、小さな日々の手づくりの積み重ねがある。
明治より前からくらしている農家の人たちの田んぼもあれば、明治時代に花巻にやってきた農家や、もっと最近、新しく農家を始めた若い人たちの田んぼもある。そうした、小さな風景づくりのモザイクがこの花巻の風景なのだ。そしてそれは、花巻東部だけでなく、みんなの心をつかむような風景の広がる、人のくらす場所の多くにもあてはまるのかもしれない。
もう少し話を広げると、人以外の生きものも、この日々の小さな風景づくりを繰り返していて、この地球の風景は、そういう生きものの手づくりの風景のモザイクとも考えることができる。
人や生きものの小さな作品づくりが繰返しつづけられてきたモザイクが、この世界をつくっている。そう考えるだけで、ちょっとワクワクしてしまうのは、きっとぼくだけではないだろう。