on outline processing, writing, and human activities for nature
フィールドワークのために花巻へかよいはじめて6年がすぎた。1回の調査は1週間から2週間。鳥が子育てをする春から夏はほぼ毎月、ここ数年は、秋や冬にも数か月に1回は、この田んぼの広がる場所にやってくる。
ただし、1年目の7月からその翌年の春までは花巻に来なかった。弘前や盛岡、栃木など他のフィールドにもかよっていたことが、理由のひとつ。調査に最低限必要な季節だけおとずれていれば、それくらいのブランクができるのも普通というのが、もうひとつの理由。
かよいはじめて2年目の5月、9か月ぶりに花巻へ戻ったのは、たしか雨の日だった。新幹線をおりてレンタカーを借り、田んぼの中をとおる道路をはしりだしたとき、雨にぬれたフロントガラス越しに、道の両側にみえる田んぼと森を目にして思わず涙が流れたのには、自分でもおどろいた。
そして、「あぁ、ぼくはここを気に入っているのだ」とおもうようになった。
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花巻では、緩やかに波打つように田んぼが広がっている。棚田と呼ばれることも多いが、きつい山の斜面につくられた典型的な棚田ではないし、広大な平野や盆地を延々とおおう平地田でもない。
森は小さい。ここに暮らす人たちが、丘の上まで田んぼをつくったからだ。緩やかに波打つような田んぼが、地平線までつづく。
この緩い波の谷間にいると、夕日は丘の上の田んぼや小さな森に沈む。太陽が、丘の森の向こうへ行くと、その森が透けてみえる。木のひとつひとつのあいだから、太陽の光がみえる。
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たとえば秋。田んぼの畔に立つと、とおくを走るディーゼルカーの音が聞こえる。2両編成のそのディーゼルカーは、波打つ田んぼのあいだをゆっくりはしる。
近くの森では、そんなディーゼルカーのことなどおかまいなしに、ノスリが鳴く。この丘になわばりをもち、あの森で子育てしたノスリが鳴く。朝から吹きつづいた風は強過ぎず、弱過ぎず。木の葉はさらさらと鳴る。
丘にのぼると、はるか西の方向に和賀岳や栗駒岳。すぐ手前のくぼんだ場所に、稲わらを燃やした煙がたまる。いくつもの稲わらを燃やした煙が、同じ方向へながれる。
そして、この空気をとおると、太陽の光はみごとなきんいろに変わる。
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このきんいろの空気をみながら、はじけるように笑う農家のひとたちを、うらやましく思うことがある。
ここにくらす生きものや人々が、空気や土、そして水や鉱物とつくるシステムの興味深さを、もっと探検したいとしみじみかんがえる。
そして近くの森では、そんなぼくの都合などおかまいなしに、ノスリが鳴く。