gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


予見された矢はもっとゆっくり飛んでくる

大衆の反逆』感想の4回目、最終回です。本文最後の14章と15章、そして「イギリス人へのエピローグ」についてのノートです。

先の1章から13章は、本書のタイトルでもある大衆の反逆そのものがテーマでしたが、14章と15章と長いエピローグは、大衆の反逆という問題に近いけれど少しちがう、ヨーロッパ全体で進む国どうしの均一化と疎遠化がテーマだと、理解しています。

14章は92ページにおよぶ8部構成の長い章。この章も、オルテガのダイナミックな社会システム観から、話しが始まります。

オルテガによると、まずギリシアやローマの都市国家から出発し、より大きな範囲を領土とするようになった小さな国家も、その境界は民族などの自然分布と一致しないため、ひとつの国家には複数の民族が含まれることが多かった。19世紀以前のヨーロッパは、こうした小さな国家の緩やかな集合体だった。

ところが20世紀に入り、ヨーロッパは変化の時を迎える。ロシア革命による共産党一党独裁の大国の誕生と、ファシズムの急速な成長。そして、ヨーロッパの外にある国、とくにアメリカ合衆国という広大で大きな人口をかかえる国家の台頭。

その変化の中で、ヨーロッパの小さな国々をより大きな範囲で集合させることが求められるようになる。国家の集合こそ、真の創造である。その集合をうまく機能させるためには、本当の創造力によって生み出される新しい思想が必要になる。ダイナミックな社会を前提とした新しいアイディアが必要になる。

オルテガはこれを「漂流者の思想」と呼んでいます。

そして、漂流者の思想こそ、オルテガの考える、新しい世界を維持し育てるための鍵になるアイディアだと、ぼくは理解しています。

ぼくたち人間の生は、混乱し錯綜したものである。漂流者の思想とは、そうした生の現実に向き合う世界観であり、その混乱と作成の中で、正確に自分の位置を見定め、道を見失わないためのもの。

多くの人々は、世界のすべてが明快であるという幻想で、その事実を覆い隠そうとしている。何となくそうではないと気づきながら..。

漂流者の思想をもつ人は、世界のすべてが明快であるという幻想から解放され、生を正面から見据え、すべてを引き受け、しかも自分が迷えるものだと自覚している。

つづく15章は、前章と対照的に簡潔で、当時のヨーロッパが抱えていた問題は大衆にモラルが無くなったこと、と指摘して終わります。

では、大衆にモラルがなくなるとは、どういうことか。その補足が「イギリス人へのエピローグ」にあると、ぼくは理解しました。

このあとがきは、『大衆の反逆』が最初に出版された1930年から7年経ち、スペイン内戦に追われたオルテガがオランダへ移り住んで一年後に書かれた文章です。

テクノロジーの進歩によって、ある国Aの人が他の国BやCの情報を大量に得ることができるようになった。その国のことを本当には理解していないのに、理解した気になってしまうほど、人々は日々他国からの情報を受けとるようになってしまった。

その結果、ある国Aにくらす人々のつくる世論がその国家の外交を左右し、別の国Bの社会システムに口出ししたり、逆に頑なに無視したりするようになった。

(間接的にしか書かれていないので、ぼくが勘違いしている可能性も大きいですが、おそらく内戦が深刻化するスペインで、スペインの人たちが発信したメッセージを、イギリスやフランス、そしてアメリカの人たちは、スペインへの偏見が原因で、「強固な意志」をもって無視しつづけたようです)

たとえばこれが、「大衆にモラルがなくなった」の例である。この現象は、前回の記事に書いた、科学者が自分の専門外のことにも知者としてふるまってしまうことと、共通する部分がありそうです。

そして、この大衆による隣国への口出しと頑なな無視こそ、本書のまえがきにあたる「フランス人へのプロローグ」に出てくる、国のあいだの多様化と均一化が同時に進むという現象の理由ではないかと、ぼくは予想しています。

ではなぜ、このあとがきがイギリス人宛てなのでしょうか。

その理由のひとつは、オルテガが、第一次世界大戦から20年間にイギリスが進めようとした平和主義の失敗が、彼の心配しているヨーロッパの悪い形での均一化を促進させた大切な原因と考えているからかなと、今のところ予想しています。

オルテガによると、そのイギリスが進めようとした平和主義は、国と国のあいだに立つことのできる、より上位のよりどころを前提としています。

しかし、そんなものは存在しない、とオルテガは言います。おそらく、当時の国際連盟が、この国と国のあいだに立つよりどころになるはずの組織だったのかなと、考えていますが、まだあまり自信ありません。

オルテガはとにかく、このあとがきを書いた1937年、国家と国家をまとめる機能が、この地球上には存在しないと考えていたようです。だから、ファシズムが台頭し、スペイン国内でも内線が深刻化している。

(ご存知のとおり、この数年後にスペインの共和国政府は敗れ、独裁政権が誕生しました)

オルテガは、上に書いたような平和主義とは別の解決策を期待しています。それが、14章で説明したような、新しい国家の(緩やかな?)集合の創造。

1931年に誕生した英連邦に、その創造のためのヒントがあるとも書かれています。これは歴史にくわしくないぼくにとって、意外でした。

オルテガによると、イギリスや南アフリカ地域、カナダやオセアニア地域など地球上の広い範囲に位置する国々からなる英連邦は、法的な存在でありながら、厳密に定義せず、余白(マージン)と柔軟性を備えている。その結果、柔軟で動きがあり、変容(メタモルフォーゼ)の過程にある歴史に連れ添うことのできる法的な存在として機能できる。

この英連邦の可能性にオルテガが注目していたことも、あとがきが、イギリス人に宛てた形になった理由のひとつかも知れません。

この新しい形の国家の集合は、14章で説明したような「放浪者の思想」をもつ人々によって創造されるだろう。しかしそれには時間がかかる。この「予見された矢はもっとゆっくり飛んでくる」、というほのかな光を感じさせる文章で、60ページ近いエピローグが終わります。

この文章は、おそらく、イギリス人へのメッセージという形をとりながら、オルテガの母国スペインへのメッセージでもあると、今のところ、ぼくは理解しています。

『大衆の反逆』を読みながら、ここに書かれている20世紀前半のヨーロッパが抱えていた課題は、今の日本や多くの国で見られる課題と本質的に近いか、似た部分も多いように、何度も感じました。

社会システムとテクノロジーの成熟をとおして、それぞれの国を構成する多数派、つまりぼくたち大衆の生活は、かつてないほど豊かになりました。

ぼくは、自分の仕事や個人的な活動をとおして(それぞれが大変微力ながらも)この社会システムとテクノロジーを維持することに関わっていると、何となく感じていました。でもそれは、本当にそうなのでしょうか。

たとえば今の日本の社会システムは、オルテガがいうような、変容する歴史に連れ添うことのできる仕組みを、どの程度備えているのでしょう。

さらに変容する歴史の中で、真の創造を行なおうとしている人たちは、どれくらいいるのでしょうか。

そしてぼくたちは、自分の専門外の課題や他の国の課題に対して、知らないのに知っているかのようにふるまっていないでしょうか。

そんなことを、自分に問いかけるようになりました。