アウトライン・プロセッシングの鍵として、 リライト、つまり一度書いた文章の再構成についてもう少し考えてみよう。
リライトには、 先の「フローラップとアウトライナー」で話した、仮の全体像を把握した上で文章を再構成するという機能とは別の重要なプロセスが含まれている。
それは、前段階でつくった仮のアウトラインを一時的に忘れること。
話をかんたんにするため、奥出直人 (1, アウトライナーを使った良い文章の書き方も参照) が書いているような、最初に仮のアウトラインをもとに本文を書く作業を進め、それが一通り終わった場合を考えよう。その文章は、アウトライナーの中で視覚化された階層構造をもっている。インデントによってアウトラインが階層構造 (=ツリー構造) として表現され、センテンスグループには見出しがついている (アウトライナーがどのようにアウトラインの構造を表現するのかについては、たとえばこの記事を参照)。
初期のリライト段階では、テキスト本文の論理構造が視覚化されたアウトラインと一致しないことも多い。したがって、このリライトの段階で、見かけの階層構造と本文が表現する論理構造を照合する作業が必要になる。仮のアウトラインで表そうとした論理構造を、本文の論理構造が表現しているかどうか確認するプロセスだ。しかし、仮のアウトラインを視覚化したままリライトすると、見出しや見かけの構造に目が行ってしまい、本文の論理矛盾や飛躍を見落とす可能性がある。
これが、1番目の論点。テキストの論理構造を視覚化し俯瞰するというアウトライナー最大の特徴は、諸刃の剣でもあるのだ。
ここで別の問題も生じる。仮のアウトラインと本文が表現する論理構造を厳密に合わせようとすると、仮のアウトラインに本文が縛られてしまうことが多くなる。いわゆる旧来のアウトラインをつくって文章を書く方式の弊害である。そして、その弊害を小さくする対策が、仮のアウトラインを一時的に忘れるプロセスをとることである。これが2番目の論点。
個人的な経験では、短い文章を書くときや長い文章の場合でも慣れてくると、仮のアウトラインを忘れるよう意識するだけで十分な効果がある。しかし、とくに自分が複雑と感じるような内容を長い文章で表現する場合には、見かけのアウトラインに騙されて本文の論理構造が今ひとつなままになったり、そのアウトラインに縛られながら本文を書き直したりしていることに気づくことがある。
そこで、より自然に仮のアウトラインを忘れる方策として、ぼくは、できあがった仮のアウトライン(本文も含む) の写しをつくり、その見かけの構造をなくす作業を行う。具体的には、パラグラフ構造は残しながら、テキスト本文だけが同じ階層に並んだ形にする。見出しもインデントもない形にする。そして、その見かけの構造をなくした (=アウトラインを隠した) テキストを頭から通して読みながら、仮の本文が表現している論理構造を確認する。
これは、狭義のボトムアッププロセスとは、明らかにちがう役割を担っている。言うまでもなく、この作業はアウトライナー以外でもできる。テキストエディタに移す過程で見かけの階層構造をなくす方が効率的だし、最終的なレイアウトでプリントアウトしたものを使う方がやりやすいときもある。
一方で、このリライトをアウトライナーで行う利点もある。本文を修正する中で新しいアウトライン案を思いついたとき、アウトライナーであればその構造を再び視覚化しながら手軽に修正できる。仮のアウトラインから解放されているので、新しいアイディアも生まれやすい。これは、仮の本文という下位要素をベースにしながら上位のアウトラインを再構成する、いわゆるボトムアッププロセスであり、上に書いた本文の論理構造確認とは別の役割を担っている。
リライトでは、これら2つが同時に進行する。同時ではあるのだが、その大きく異なる役割を意識しながら作業することが重要、というのがこの記事3番目の論点である。
最後に、このプロセスの呼び名について。ここで書いたテキスト本文の論理確認プロセスは、一度書いたテキストを再構成する点では先のフローラップと同じだが、この言葉がもつ「フローを巻き取る」というイメージから外れている。
しかし、別の呼び名をつけるかどうかは、アウトライン・プロセッシング全体の構造を整理してから決めるので良いと考えている。項目の分類は無限に細かくできるし、それに名前をあげて定義することも難しくはない。でも、それらを区別することの重要性は、全体、あるいはある程度まとまった上位構造ができあがって初めて評価できる、相対的なものなのだ。