on outline processing, writing, and human activities for nature
ぼくは、フィールドワーカーです。
フィールドで学びつづける人たちに強いあこがれを感じるようになったのは、小学生の頃だった気がします。
フィールドにかよい、フィールドで集めたデータをもとに、フィールドのなぞをとく人たちがいて、その人たちをフィールドワーカーと呼ぶのをしったのは高校生になってからでした。
たしか、京都大学の自然人類学や霊長類学に携わる人たちのかいた本に出会ったときだったと思います。
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フィールドは、この世界の一部でありすべてでもあります。通り過ぎるのではなく、立ち止まるところであり、そこに体をおいて、この世界との会話を行なうところ。
ただし、フィールドから何かを教えてもらうには、ぼくたちが、フィールドと会話する技術を磨きつづける必要があります。
空にある月は空中に浮かびつづけ、地表では数え切れないほどのリンゴが落ちつづけています。
しかし、そこから引力に気づいたのは、少なくとも17世紀までのあいだには、アイザック・ニュートンのようなごく一部のヒトだけでした。
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フィールドには、ヒトのことばを話すヒトが住んでいますし、ヒトのことばは話さないけど、別のことばをもった動物、無口な植物たちも、住んでいます。
生きものすべてを包み込むように空気や水があり、その下には岩や土があります。そして、それらに降りそそぐ太陽の光を忘れてはいけません。
こうした世界は、たぶん50憶年ほど前には存在しませんでした。
その後のどこかで、地球という惑星が形づくられ、そこに海ができ、生命がたぶん海のどこかで独力で誕生し、それから数10億年のあいだにその生命が地球上のほぼすべてに広がり、何百万もの種に分かれました。
途中で何度かの大きな大量絶滅を経験しながら。
そういう、途方もない奇跡のようにも感じる歴史があって、今、ぼくたちはここにいます。
フィールドワークとは、そういう何だかスゴイことに正面から向きあう作業だと、ぼくは理解しています。
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ですから、逆説的にきこえるかもしれませんが、フィールドは大自然である必要もなく、メズラシイ生きものたちが暮らす場所である必要もありません。
大都会がフィールドというものいいですし、あなたの机ひとつの空間もフィールドになる可能性があります。
土壌動物を研究する人たちによると、都心にある明治神宮の森で、ヒトがつけた足跡のしたには、ワラジムシが11匹にアブやハエの幼虫が103匹、トビムシは479匹で、ヒメミミズという小さなミミズは1845匹もいたそうです。
ぼくたちの足あとにすら、生きものの宇宙が広がっているのです。
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高校の頃、あまり学校へは行かないようにして、ぶらぶらしていた時期がありました。
たとえばディーゼルカーに1時間くらいのって大きな渓谷の駅で降り、半日くらい渓谷沿いに歩いたり、そのあたりにある山を無闇に登ったり、駅からでているバスに1時間くらい乗って知らない集落を訪れたり。
16才から18才のあいだのたしか1–2年間、そうやってを何もしない時期を過ごしました。
自分がいったい何をしたいのか、ひたすら考えていた時期だったと思います。そして、こんなことを考えました。
ヒトの脳はすばらしいけれど、少なくともぼくの場合、自分の脳だけではこの世界のごく一部しか理解できない。
でも、フィールドはこの世界への問いかけ方をぼくたちに伝え、問いそのものを与えてくれる。そして、フィールドはぼくたちに問いへの答えの探し方を教え、答えの案の妥当性をテストさせてくれる。
もちろん、もっとあいまいでテキトーな文章だったと思いますが、とにかくそんなことを考えました。
なぜ、それほどに断定的に思う (思い込む) ことができたのかは、よく分りません。当時夢中になってよんでいた本のウケウリもあったでしょうし、それが若さなのかもしれません。
そして、実は今でも、それはまちがっていなかったかなと、考えています。
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フィールドにでると、ヒトやヒトのつくる社会の小ささを実感することが、よくあります。そしてそれと同じくらいの頻度で、ヒトやヒトのつくる社会のすばらしさを実感することもあります。
たくさんの論文をよんで、たくさんノートをとり、日々かきながら考えて組み立てたアイディアが、フィールドにきた瞬間に木っ端みじんになることもあります。机上の空論とはこのことだと思い知ったことは数知れず。
そんなぼくでも、フィールドを訪れることで、ヘナチョコ・アイディアを生かす方法に気づくこともあります。
その瞬間、ぼくは「あぁ、フィールドワークしていて本当によかった」と、しみじみ思います。
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ぼくはフィールドワーカーです。
フィールドに教えてもらうことで、ぼくはぼくらしく生きることができるかなと思っています。
いいフィールドワーカーとしての人生を送ることができれば、これ以上の幸せはありません。
そう日々思ってはいるのですが、残念ながらまだまだの人生です (笑)。