gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


知的生産とブログ その2

8月28日、「夏の知的生産とブログ祭り」という集まりに参加した。今回は、演者3人の講演内容について、ぼくの考えを整理してみる。

「知的生産とブログ」というテーマからすると、堀正岳さんのお話しは、ぼくにとっていい意味で一番正統派の内容だった。

情報を素粒子 particles に例え、その粒から新しい「もの」が生まれるプロセスを、ぼくたちがオンライン記事や本を読み、そこから新しい記事や本を書くプロセスのメタファーとしながら、ブログなど文章を公開する活動のあり方を見ようとした試みだったと理解している。素粒子という例えから分かるように、得た複数の情報の相互作用から、新しい情報を生み出すプロセスにフォーカスしている。

具体的には、a) 最新の話題にアンテナを張りめぐらし、これはという情報を選別する方法とそれに使うアプリケーション、b) 選別した情報に振り回されることなく、自分の視点でアレンジメントし味つけする方法とアプリケーション、そして、c) それをブログや論文、本として公開する文章としてアウトプットする方法とアプリケーションについての、堀さんならではの盛りだくさんの解説。それぞれのサブテーマに、堀さんの強い想い入れが感じられる情報が、小気味よい形で散りばめられていた。話しは a のつぎに c、最後に b の順に進んだと思う。

ぼくが興味あるのは、b の情報に自分なりの味つけをするプロセス。これはという情報をみつけたら、原典の文章まで自分の目で見てから自分の考えを整理して記事を書いた、というお話しは、同じ科学を仕事にする者として賛同するところ。

一方、「心を無にして文章にまとめる」というお話しには、とても驚いた。ぼくは、文章を書くとき、自分の頭の中を流れる考えの一部を選びながら、文字に翻訳するということを意識している。だから、心を無にしたら何も書けない。

でも少し視点を引いて、お話の最初に見せてくださった手書きノートのことを思い出すと、堀さんの「心を無にする」に納得できた気がした。堀さんが、ハイスクール時代につくったノートには、頭に浮かぶたくさんのアイディアがびっしりと書かれてあった。それぞれの文章のかたまりには番号か記号がふってあり、その番号などを参照しながら、さらにノートを書いていったそうだ。「手動のハイパーリンクのようなもの」と言えば分かりやすいだろうか。堀さんもたしか、そんな風に説明していた。

堀さんはたぶん、たくさんの情報をすごい速度で吸収しながら、いろんな考えが頭の中にあふれ出る人ではないか。だから「心を無にする」くらいの意識をもって、そのあふれ出すアイディアから距離を置いてやっと、中立な気持ちで文章に翻訳できるのではないだろうか。もちろんこれは、ぼくの適当な仮説。

Tak.さんのお話しは、大きな分け方では、堀さんと似たテーマだった。つまり、あふれかえる情報の中で、ブログや本、レポートや報告書、そして論文などの文章を自由に楽しく書く方法の解説。

ただし、ここが Tak.さんの持ち味だと思うのだが、まず情報源を頭の中に浮かぶアイディアに限定し、それをテキスト情報として捕まえ、他人が読んでも分かる文章に育てるプロセスにフォーカスしたお話しだった。

Tak.さんは、情報の断片を素粒子ではなく、ピース piece と呼んだ。英語の piece には、断片という意味以外に作品という意味もある。ぼくの理解では、Tak.さんのお話はピース (言葉の断片、センテンス、パラグラフなど文章の塊) をピース (論文や本などの作品) に育てる方法、つまり、文章作法のお話しだった。

余談だけど、ぼくは絵や彫刻、そして小説などの呼び名としての「piece」という言葉が好きだ。とても英語的な英語じゃないかと思っている。その言葉が生まれる文化的な経緯というか、歴史を知りたい言葉のひとつ。

さて、その文章作法に欠かすことができないのが、アウトライナーというアプリケーション。だけど、アウトライナーという道具に惑わされてはいけない。このお話しで提案されたTak.さんのアイディアの真価は、そのアウトライナーが具現化している文章作法ではないかと、ぼくは考えている。今のところ。

アウトライナー実践入門』の内容も踏まえながら、その先のお話しを聞くことができたのが、何よりもの収穫だった。このプロセスを、Tak.さんはラップ wrap あるいはフローラップ flow wrap と名づけている。

ただし、アウトライナーにはさらなるポテンシャルがある。個人が自分の考えを見つけ育てる場としての機能以外の機能がある。それは、本や論文、ブログなどで公開したアイディアをもとに、さらに新しい考えを育てる機能。

そのポテンシャルこそ、倉下忠憲さんのお話しの中心テーマだった。

倉下さんのお話しと、堀さんやTak.さんのお話しの一番大きなちがいは、対象が個人ではなく、社会というかたくさんの人が織りなすコミュニティーである点だと、ぼくは考えている。

本や論文、エッセイやブログなどの文章にある情報の断片 fragments を、人はそれぞれ、自分のやり方で取捨選択し、自分の選んだ情報の一部をつかって新しい情報を生み出す。それはたぶん、それぞれの人のブログやエッセイ、論文や本などの文章として公開される。その文章の断片には、実はその著者がそれまでに読んだ情報が、その著者のフィルターを通した形で含まれている。ここで、その著者が読んだ文章断片のひとつにフォーカスすると、同じようにその読まれた文章断片を書いた別の著者フィルターをとおした、さらに別のたくさんの著者のたくさんの文章断片が含まれている。そして、そして..。

ぼくたちが文章を読み、それをもとに新しいアイディアを文章にする営みの総体として、社会をとらえよう。その情報のダイナミクスを念頭に置きながら、そこに貢献するとは何かを意識していこう。

社会貢献という言葉を使っていたかどうかは自信がない。とにかく書くことも大切だけれど、社会のような人々の集まりへの貢献を意識して書いていこうという提案こそ、倉下さんの大きな魅力のひとつだとずっと考えている。

以上が、ブロガーとしてそれぞれの個性を十分に発揮しながら活躍されている3人のお話しを、ぼくなりにまとめた要点である。

ぼくはこれらのメッセージを、ぜひ、ブロガーだけでなく、より多くの人たちに知って欲しいと思っている。

個人が個人として情報をたくわえ、自分のものにし、発信しながら実践にも役立てていく。その価値を再認識できた集まりだったと感じている。