gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


横須賀線、2025年7月20日

 

土曜だけど通勤時間のせいか、あるいは週末に早く出かける人が多いのか、横須賀線の上り列車はそれなりに混んでいて、戸塚駅でたくさんの人が降り、もっとたくさんの人が乗ってくる。

その先頭を、たぶん小学二年生の女の子が入ってきてぼくのとなりに座りながら、これまたたぶん五歳の妹に、正面にあいた席に座ればいいと手で何度か合図する。その妹はちょっととまどいながら、お姉さんの指さした座席、自分の腰と同じくらいの高さの座席にジャンプして座る。

ぼくのとなりに座った子は、あとから入ってきたお母さんに、私たちはここよと手をふる。そのお母さんは入り口よこの空間に置いたキャリングケースのそばに立ち、ふたりに目で合図する。

子どもたちはふたりとも大きな麦わら帽子をかぶっており、ふたりとも背の高さに合ったサイズのリュックサックを背負ったまま座っている。

夏休みだから彼女たちのおばあさんやおじいさんのところへ出かけるのだろうかなどと考えていると、となりに座った子は自分のリュックからとてもうれしそうに小さい双眼鏡をとりだす。

プラスティックでできたカラフルな、つくりからしてもたぶん子ども向け双眼鏡。ツァイスやスワロフスキーの双眼鏡ではないことに、なぜかちょっと安心する。

カラフルな双眼鏡がその子にとって自慢の双眼鏡なのは、表情からひと目で分かる。彼女はちょっと考え、それからお母さんの顔を見て、意を決したようにスニーカを脱いで窓にむかって座り直し、双眼鏡で窓の外を見はじめる。そしてたまに、ぼくの方に向いて、いいでしょと目で合図する。

人前でもシャイではない、でもそれなりにまわりを気づかっているように見える子どもたちと、窓に向かって座った子に「行儀よくしなさい」と有無を言わせず注意しないお母さん。

いいなと思っていると、彼女がお母さんに英語で話しかけ、お母さんも英語で応える。

「白いヤギが見えたよ。子どものヤギ。私、ヤギを見たことがあるから分かるんだよ」

「ヤギ。どこで見たの?」

英語のアクセントからすると、北米で生まれ育った人たちかも知れない。

横浜駅で席も空いたので、ひとつ移動して女の子のとなりの席をお母さんに譲る。お母さんの「ありがとう」とお辞儀は日本の人ならでは雰囲気だったけれど、ふたりの子どもたちとの話す姿勢は、北米やイギリスで育った知人の話し方に似ているように見えた。

相手の目を見ながら、対等なオトナと話しているように見えた。

* *

何と言えばいいか、こういう国とかことばとか、文化の境界を軽々と越えたような風景が、たとえばこのお母さんが生まれた20ー30年前の横須賀線にくらべて普通になったかなとおっさん的に実感している。

それがホントだとするとちょっと嬉しいし誇らしい(笑)。そして、少し考える。

電車の窓から、もうこれ以上楽しいことはないという表情で自慢の双眼鏡で風景を眺めていた子どもたちがオトナになったとき、日本にくらす人たちがつくる社会はどんなものになっているだろうか。

彼女たちが今よりも、もっと生き生きと自然に呼吸できる場所のひとつとして、日本が育ちつづけることができるだろうか。