on outline processing, writing, and human activities for nature
カフェで作業していると、まわりが気になるときがある。
たとえば、こんな男性が目にはいったとき。
足を大きく広げ両どなりの席まで自分の陣地にしているようにみえる。そしていっしょにいる女性が、飲みものをカウンターへとりにいったり、カップを下げたりするのを当然のように、そしてしかめっつらして眺めている。
そういう人に気づいてしまうと、カタカタうるさいキーボードつかってる自分のことは棚に上げ、その男性にモノモウシタクなったり、勝手に腹を立てたりしている。
でも結局のところ、ぼくはそのとき何をしたいのだろう。
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よほど目に余るときは、明るく自分の気もちをその男性に伝えてみるのも手だと思っている。
それは、とっておきの場面のために残しておくのがいい。たぶん。
そうでないときの多くは、すべて(明るく)闘うのではなく、罪を憎んで人を憎まずは大げさすぎるけれど、その気もちを少しだけでいいから自分のしごとに繋げてみる。
あるいはそんな気もちを、気軽に手放してしまう。
忘れるのではない。より高みへと昇華するなんてむつかしいことでもない。
そう、たとえば空を見上げて、大きく呼吸してみる。
これまで育ててきた、自分のフリーライティングのひとつを開いてゆっくりよんでみる。
そして、さっきまでの自分を眺めるというか、愛でるというか。少し距離をおいて、その気もちを観察するのもいいかもしれない。
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さて。
冬と春の境界線を実感できる、すてきな3月と4月、夏鳥の出そろい夏の香りがはじまる5月がすぎた。
3月下旬、雨期の終わりを迎えつつあるルソン島へ行き、とんでもなく明るく元気に歌いながらくらしている人たちと出会った。
4月と5月、いつものように大好きな花巻を一回ずつおとずれた (これはいつものペース)。
彼女のしごとの手伝いで、火山でできた南の島、三宅島と八丈島であらためてびっくりするくらいたくさんの鳥のくらす豊かな森のすばらしさを実感したのは4月後半。
そういうことをふり返り、それなりに満足していい3か月だったと思うことにした。
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では、それにつづく6月と7月、あるいは8月。ぼくは何をやりたいのだろうか。
少し自分を広げる時間にしてはどうかと、何となく考えている。
たとえば、論文と専門書をよみなれているつもりだったけれど、さらにもう少しゆっくり分厚い専門書や力作論文をよむ時間を、余裕をもってできるくらいにたっぷりとってみる。
それを先送りにしないよう心がける。できる範囲でいいから大切にする。
そしてそのためのテーマは、原点に帰る。