gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


話しの環

野外調査のフィールドにくる愉しみのひとつは、この場所にくらす農家の人たちと会えること。幸運なことにここには農業に燃える若い人たちも少なくないけど、少なくともぼくが知りあった農家の人たちの半分以上は70才より上で、90才を越えたという人も多い。

彼や彼女は、ぼくがいつ訪ねても嬉しそうに出迎えてくれる。まぁまぁまずは座りなさいと、色んな話しをしてくれる。この明るさというかはじけるような笑顔をみると、人間というのは捨てたもんでもないと思ってしまう。

で、玄関に座りこんで話していると、よく他の誰かがたずねてきて三人四人と話しの環が大きくなることが多い。ぼくにとって初めて会う人も、ずっと前からしっていた人のようにぼくも入れたかたちで、世間話の環が広がりつづけるところが、ほんとスゴイと思う。何といえばいいのか、肌ざわりのやわらかい会話の中にいる幸福感。

ぼくの実家は四国の山あいにある古い寺で、今でいう集会所や公民館のような機能をもっていた。そして、集会以外もいろんな人が用事はないけれど尋ねてくることが日常だった。

たとえば、毎日のようにやってくるM江さんが母と立ち話しをはじめて5分後に、となりのK子さん(といっても500mくらいは離れている)がやってきて、その10分後には別方向のとなりのT子さんもきて.. と環が大きくなる。ぼくは幼稚園や小学生の頃、オトナの話題など分からないのだけれどこの雰囲気が好きだった。

フィールドにある農家で話し込んでいると、子どもの頃に日常だった井戸端会議の風景を想い出す。そういえば、姓ではなくファーストネームで呼び合うことが多いのも似ているかもしれない。シンちゃんとかナコさんとか、ファーストネームしか知らないおばあさんおじいさんも少なくない (笑)。

そして、会話を終えて車に戻り宿へ向かう途中、雑木林の向こうに沈む夕日をみると心の底からエネルギーが湧いてくる気がするときがある。人間は自分ひとりで生きているのだけれど、ひとりぼっちで生きているのではないと思ったりすることもある。