on outline processing, writing, and human activities for nature
その日のためのフリーライティングするとき、きのう一日のためのアウトラインを見ながら、そしておとといつくった大きいアウトライン (人生についてちょっと考えてみましたぜ) もいっしょに見ながら、かきたいときがある。
そういうときにアウトライナーは便利。
きのうのアウトラインを今のフリーライティングの下、おとといのアウトラインをさらにその下に置き、それらの項目を開いたままにする。
画面におさまらないほど長いときにもあまり気にしない。開いたまま画面をスクロールしながら眺めなおして記憶を呼びもどす。
よみ難いなと思ったら、たとえばきのうのアウトラインを閉じて、おとといのアウトラインをゆっくり読むこともある。
それから、いちばん上に置いた「今日のためのフリーライティング」へもどり、浮んでいることばを文字にする。
もちろん、きのうとおとといのアウトラインを開くことは義務ではない。そらでかきはじめることも半分くらいはあるだろうか。
読みなおしたくないとき、あるいは読みなおす必要がないときも多い。
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フリーライティングをつづけていると「これはうまくいったぜ」という瞬間がある。
ぼんやりしていたものがクリアにできる場合もあれば、思いもよらなかったことが一気に〈カタチ〉になることもある。
その可能性を少しでも大きくするしかけを少しずつ育てたいと思っているけれど、これがまたむつかしい。
ある日これだと思ったものが、つぎの日にはうまく行かないことも多い。
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たとえば浮んだ考えを、自分のペースでタイプしつづけられる環境をつくる。
自分の体の一部のように感じる、シンプルで高速なテキストエディター。
タイプした文字を軽快に按配する小さな機能を自由にカスタマイズできるアウトライナー。
育ってきたアウトラインからその「文脈」をみとおすこともできる。
つかっていることを忘れ、かいたり按配したりできる透明な道具。
あるいは作業を気軽にはじめさせてくれる、ついはじめてしまうような刺激を与えてくれる道具。
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異論ある人も多いと思うけれど、ぼくにとってそれに近い道具は Emacs org mode と Bike Outliner。
このふたつの道具に出会えたことは、ぼくの人生のささなやかな幸運のひとつ。
されど道具、でもたかが道具。
その道具をつくりだした人たち、その道具との出会いの機会をつくってくれた人たちへの感謝というか、ありがとうという気もちをぼくは、自分のしごとをとおしてあらわせるといいなと考えたり、それも思い上がりかなと思ったり。
きょうも空が広くて、マルバウツギの花が白いなということだけでイイジャナイカと思ったり。