on outline processing, writing, and human activities for nature
少していねいに文章をつくっていきたいとき、SKKをつかうのがワリとあっているように感じる。
SKKは日本語入力システムのひとつ。Emacsでコードや文章をかく人に愛用者が多いと思う。
ぼくの場合だけかもしれないけど、SKKでかいているときには漢字だけでなくおくり仮名にも想いをはせながら、あるいは「やっぱりこれは漢字じゃなくてひらがなだよね」とか浮んでくる気もちと対話しつつ、文字をタイプするようになる。
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たとえば本をよみながら、アウトライナーでノートをとっているとき。
以前は、頭にあるものをそのまま素早く文字にすることが大切ではないかと考えていたけれど、いつもそうではないことも見えてきた。
頭のなかで自分の意識を観察しながらそれをことばに直すときには、どちらかというと、ひらがなと漢字のつかい方にも気をつかいながらノートをとる方が、その本にある情報を自分なりのことばにできる場合が増える気がする。
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今の多くの日本語入力システムでは、とりあえずタイプして、きりのいいところでシフトキーを押し、漢字やおくり仮名などの候補のどれかを選ぶことが多い。自動変換の場合はシフトキーをおす必要もないかもしれない。
SKKでは、漢字にしたいことばをタイプするときには最初にシフトキーをおして「▽」印を表示させないといけないし、おくり仮名の最初にも同じ操作をしないとイケない。
この変換するかどうかを決めるタイミングのちがいがもつ効果が大きいことは、皆さん想像のとおり。
SKKのほうが、慣れとかマッスルメモリーとか技術を自分のものにする時間と努力を要求するだけでなく、たとえ習熟できたとしても、頭をつかいつづけながらことばを固めていく意識を必要とする。
これがぼくの場合、たとえば哲学の本をよむときなどには、ちょうどいい感覚がある。
そして、ノートをとるときだけでなく、じっくり自分の文章をかきたいときの心もちにも合っているように感じることが多い。
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たとえば哲学の著書をよむとき、ぼくはとても時間がかかる。
パラグラフやセンテンス、章や場合によっては他の本とのあいだをいったりきたりしながら、たとえばデリダのかこうとしたことをソラでいえるくらいにシェイクする。
そういう心もちを育てる装置として、手がきではないけれど、手がきのようなていねいさを必要とするこのSKKが役にたつように、ぼくは感じている。