on outline processing, writing, and human activities for nature
ぼくはなぜデリダをよむのか。 ぼくはなぜ珈琲をいれ、珈琲をのむのか。
ぼくはなぜ旧い車が好きなのか。
ぼくはなぜアウトライナーをつかうのか。 ぼくはなぜEmacsをつかうのか。 ぼくはなぜorg modeをつかうのか。
Smalltalkを応援したくなるのはなぜか。 Smalltalkでプログラミングするときの幸福感はどこからやってくるのか。
ぼくはなぜ文章をかくのか。 ぼくはなぜフィールドへ通うのか。
ぼくはなぜ、科学と哲学にあこがれているのか。
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大きいフリーライティングをする。
大きいフリーライティングは、今日一日のためのフリーライティングよりも、 もう少し腰をすえてやりたいフリーライティング。
たとえばここ数年間にわたって準備をすすめてきた大きなイベントを無事におえることができたあと。 たとえば日々まとめてきた論文を無事に投稿できたあと。 あるいはたとえば、このひと月がんばってつくった研究助成の申請書を無事に提出できたあと。
ほおっておけば、たぶんそれでも忙しい毎日がやってくる。 それはそれでいいような気もするけれど、 そこで大きなフリーライティングをする。
ぼくがつぎに何をするか。あるいは何をしないか。
そういうことを、思考してみる。 あるいは思考する準備をする。
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自分が自分の行動をえらぶ基準を俯瞰するために、ぼくは何をしているか。
自分の内側を観察しようとする。 みえてくるものをくるものを理解しようとする。 そうしならことばにする。
フリーライティングしはじめると、いろいろそこに固定される感覚がある。 固定しながら、思考の糸をつむぐような、つむいだ糸をていねいに下地に固定していくような感じ。
そうすることで、自分の覚悟が決まる。 それをえらんだ自分を応援するような覚悟が決まる。
それから、いつでもそれを引っくり返してもいいという覚悟も決まる。