gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


国語、算数、博物学

いろいろな生きものの「種」を見分けられるようになると、たとえば森を歩いているときに見える景色の解像度が上がる。聞こえてくる音の景色の解像度も上がる。

ヨーロッパへいくと、とくに英国などで出会う多くの人が鳥やほ乳類、昆虫や植物の名前をふつうにしっていて、生きものの世界のできごとにもふつうに興味をもっている人が多いような気がする。

「うちの2軒向こうのトマスんちの裏庭で、シジュウカラが2回目の繁殖 (second clutch) の巣立ちに成功したんだよ。これは4年ぶりのできごとだ」

以前、休暇をとってイギリスのイースト・サセックス州の田舎へ遊びにいったとき、滞在した B & B のそばで立ち話した近所のおじいさんから、こういう話しを聞いたときには、ちょっとうれしくなった。

生態学や鳥の研究者以外とそういう話しをしたのは、初めてだったから。

シジュウカラはイギリスでもいろいろな森にくらすふつうの鳥で、そのめずらしくもない鳥に興味をもっていること、シジュウカラのようなのような森にくらす小鳥が、春から夏のあいだに何回か子育てを試みることを、よくしっている。

そして、鳥たちの1回目の子育てを first clutch、2回目を second clutch といい、2回目の営巣の割合が減ることが何を示しているかについても、たぶん日々の生活の中で考えたり、会話している。

そういう人に出会えることは、ぼくにとって少なからずうれしいことである。

生きものの「種」を見分けたり、興味をもつようになると、生きものたちの世界の変化に気づく可能性が上がる。

たとえば「温暖化」ということばにも、日々出会う生きものたちの目や耳で感じた変化をとおして体の感覚としてその影響を見られるかもしれない。

温暖化の影響を受けているのは、人間だけでも、日本から遠くはなれた北極のホッキョクグマや南極のペンギンたちだけでもないことも、自分のことばで語れるようになる可能性がある。

あるいはたとえば、人の影響でメダカが日本中の田んぼの水路からいなくなったことを、ネットやテレビのニュースでよんだり聞いたりしてしっているだけでなく、メダカが水路で泳いでいた姿を思いだしながら、メダカがいなくなる感覚やその理由を自分の問題として捉える人が増えるかもしれない。

個人の適当な意見だけど、生きものや自然を見る解像度を高めるのは、それほどむつかしいことではないと思っている。

たとえば小学校や中学校の授業の中でゆっくり野外にでて、できれば本やオンラインの「情報」から距離をおき、みんなが自分の目や耳で、あるいは手や足で、ほんものの生きものや石や岩や土を感じたり観察したりできる「博物学」の時間を入れるだけで、ずいぶん変わるんじゃないかと考えている。

ぼくもそうだったけど、日本の学校で育った生きもの好きの多くは、学校のルールや厳しい先生、心配性の親たちの目をぬすんでは、自分でそういう時間をつくっていた。

(もちろん、いい先生に巡り会って、ゆっくり野外にでる機会をつくってもらった人も少なくないだろう)

学校から家までの田んぼや川や池で、一生忘れられないような、身近な生きものたちとの出会いやエピソードを経験した人も多いかなと予想している。

そういうきっかけになる時間を、学校の授業として、たとえば週1時間でもいいからとることができれば、日本中にいた身近な生きものたちが、ふと気がつくと絶滅寸前だったという残念なできごとも減るだろう。

日本の人たちと生きものたちとの関係も、変わりはじめるのではないだろうか。