on outline processing, writing, and human activities for nature
先の記事にも書きましたが、去年の秋にジョン・ファンテという作家の本に出会い、文学作品をよむことの愉しさを実感しました。
そして本を探したりよんだりする時間をとるようになり、文学作品をよむことの「良さ」が何か、考える機会も増えました。
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どこかでかいたと思いますが、たとえば今、ぼくがハマっている作家はホルヘ・ルイス・ボルヘスとジョン・ファンテの二人です。
彼らの作品に感じる魅力の形は大きくちがいますが、二人の作品から、ぼくがこれまでに気づいていなかった世界の見方や世界との触れ合い方をインパクトある形で見せてもらった、いや、見せつけられた気がしています。
ボルヘスはアルゼンチンの人で、その作品の舞台も南米であることも多いようですが、たとえばボンベイやバビロニア、ヨーロッパ、あるいはどこか分からないところだったりします。舞台になっている時代もこの作品がかかれた年代の場合もあれば、遥かむかしということもあるようです。
そして、そこで描かれる世界の自由さに驚きます。不思議で不条理な世界を生みだす想像力と、その世界を表現する独特の文章。絵や動画ではなく、文章だからこそできる表現というものがあるんだと、思い出させてくれます。
ファンテはイタリア系アメリカ人二世で、彼の人生を素材にした、コロラドやカリフォルニアでの生活が、読み手を惹き込む魅力的な文章で軽快に描かれています。
貧困、移民、宗教、野球、母、父、いとこの死、うそ、ぬすみ、母親や先生へのうらぎり、父の浮気、母と父、暴力、哲学や文学への憧憬、弟、妹、妻の出産、自分の犬をもつこと、恋愛ではない何か、自分の才能への過信と絶望、それでも信じることのできる何か。
いろいろな方向へつっぱしって行く、ファンテのオルター・エゴとされる小説の語り手アルトゥーロやジミー、あるいはジョンの語るさまざまなシーンの連続が、生きている時代も国もちがう、そして移民でもないぼくたちの心をしっかり掴んでしまいます。
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それと関係していると思うのですが、このところ文章を書きたくて仕方がないモードに入っています。なんでも文章にしたい。
カフェの大きなテーブルで対面の人がうっかりペンを転がしただけでも、マスターがかっこよく珈琲いれてる最中にくしゃみしただけでも、むかしの職場の同僚のしょうもないダジャレを思い出しただけでも、それを文章にしたくなります。
そして、こう思います。
目の前のテーブルにある珈琲のシミや、グラスの底に残されてぬるくなったごくわずかな水にも、もしかすると他の人たちに届けるだけの価値が隠れているかも知れない。
それから、こうも思います。
そんなことないだろ。
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話しがズレました。
文学の作品をよむことの「良さ」について、分かっていないことも多いと思うのですが、漠然とした期待もあります。
文学の作品に触れることで、たとえその内容をほんの一部しか理解できなかったとしても、生きる覚悟がほんのちょっと変わるきっかけになるんじゃないかという期待です。
たとえば、今日の「to-doリスト」がどうあがいても一日では終らないほど溢れているときに、「ま、いいか」と開き直ったり、何をやって何を捨てるのかを選択する覚悟を育てるきっかけになる。
実用書とはちがい、主人公の言動をそのまま真似すると、逆に大変な目にあう場合も多いでしょうし、十年後に思い出して恥かしくなっちゃう場合もあるでしょう。
でも、一度よんだ短かい文章から、一生分の生きるエネルギーをもらうこともあるかも知れませんし、いくつかの作品と日々のできごとが相乗的に効いて、自分ならではの「あぁ、そうだったのか」という感覚をもつこともあるかも知れません。
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で、話しを無理矢理まとめるとこうなります。
「文学作品に日々触れつづけることは、自分の生きる覚悟を育てるきっかけになる」
これが、今のところの、ぼくのヘナチョコ仮説です (笑)。