gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


灯台へ

 

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読みました。

3つのパートでできたどちらかと言うと単純な構成でありながら、物語りの構造の重層性がはっきり見える作品であるところが印象的でした。

この「物語り構造の重層性」を頑張って別のことばにすると、全体のアウトラインと部分を構成するセンテンス、それぞれの内容が相互作用して新しい意味が生まれてくるような構造をもっている、と言えばいいでしょうか。

(意味不明ですね..笑)

ウルフの作品を読むのは初めてで、まず第一部「窓」の文章に驚きました。

語り手がどんどん変わります。語り手それぞれの心の声と登場人物の会話がたぶんわざと区別されず、かぎ括弧も少なめに滔々と書かれています。

登場人物それぞれの心の移り変わり、登場人物どうしの微妙な心のすれちがいが解像度高く描かれています。ラムジー家の人々とその友人たちは、ぼくから見ると比較的金銭的に豊かな生活を送る人々のようにも見えます。

しかし、彼女や彼らはヒロインやヒーロー的な特別な存在ではなく、大きく見れば普通の人たちとして描かれています。

この小説では、普通の人たちが普通の日々のなかで抱えこむ漠然とした苦しさや、家族や友人に抱く愛おしさような感情が、印象派のような大胆な筆遣いでリアルに描かれていると感じました。

第三部「灯台」でも、敢えてテンポが抑えられているように見えますが、第一部と同じ書き方で文章がつくられていると思います。

速いテンポで語り手が移り変わり、その心の声と登場人物の話しことばが明確に区別されずに書かれた文章だからこそ、ひとりひとりの心の微妙な揺れ動きと、他愛もない会話を通した心と心の行き違いが、リアルに表現できているのではないでしょうか。

そして第二部「時はゆく」で、さらに驚きました。

第一部とは対象的な、解像度の粗い大胆な文章がほんとかっこいい。時間の流れる速度が一桁か二桁上がります。第一部のつづき、おそらく翌日から始まって、ラムジー家とその友人たちが屋敷を去り、また戻ってくるまでの長い時間が、短い十個の章をとおして描かれます。

主役たちがいなくなった屋敷に視点を固定したまま、遠ざかっては近づき、また遠ざかっては近づくという形で、十年という時間の流れの無情さが、風雨のなかで屋敷が朽ちていく様子と、戦争という大きな出来事の断片とを合わせた形で描かれています。

この屋敷を通り過ぎる風のような視点で描かれた文章があるからこそ、第一部で描かれた、たとえばラムジー家の六歳の末っ子ジェイムズと父親ラムジー氏との行き違い、そのあいだに立つラムジー夫人の賢明さや強さが、胸に刺さるように生きてきます。

第三部では、この地に戻ってきたリリー・ブリスコウが、十年前に描きかけだった絵を完成させようと決意をしているように見えます。

「まだその絵は仕上がっていなくて、この十年間ずっと心に引っかかっていた。いまもう一度、あの絵に取りかかってみよう。…そう、十年前に立っていたのも、ちょうどこの辺りだ。壁が見える、生垣があって、木も見える。問題は、そのさまざまな形の量塊(マッス)をどう関係づけるかだ」(283-284ページ)

しかし十年前と同じように障害に出会います。たとえばあのラムジー氏。

「少しでも隙を見せたり、ぼんやり何もせず彼の方に目を向けたりすれば、すぐにも氏は彼女のところにやって来て、夕べと同じ調子で「わしらの一家もずいぶん変わってしまった、と思われるでしょうな」などと言い始めるだろう」(284-285ページ)

こうした十年来の課題を乗り越えたいというリリーの具体的な焦りに加え、リリーの記憶として蘇るラムジー夫人の存在も、第三部の大切な要素のひとつになっていると思います。リリーの心のなかでの夫人との会話、十年前、まさにこの庭で目にした夫人とジェイムズの姿などの描写です。

リリーたちを屋敷に残し、ラムジー氏は十年前の妻との約束を果たそうと、息子のジェイムズたちを半ば強制的に連れ出し、あの灯台への半日程度の小さな旅に出ます。

初老を迎えた哲学の研究者ラムジー氏と、十代後半にまで成長したキャムとジェイムズ。この親子の軋轢の描写も、第三部のもうひとつの大切な要素になっています。

帆で進むボートに乗り、風が吹けば軽快に、風が止めばその場所に立ち往生しながら、灯台のある島へ向かうラムジー親子。舵を任されたジェイムズは決して父と会話しないと心に誓っています。しかし、そんなジェイムズの気もちをラムジー氏は気づいているのかいないのか、ボートの中心に座り、彼は本を読みつづけています。

こうした静かな空気のなか、彼らのボートが灯台のある島に近づき、見たことのない形へと島が変化し、ジェイムズは大きな岩場の上にある灯台を見上げます。このとき、ジェイムズは十年前の父親の心ないことばと遥か遠くに見えた灯台の記憶と、今間近に見える灯台の姿が重なります。

「「明日はたぶん雨だろう」ジェイムズは父の言葉を思い出した、「灯台へは行けそうもないな」」(360ページ)

「ジェイムズは今あらためて灯台を眺めた。石灰で白く塗りかためた岩と鋭くまっすぐにそびえ立つ塔。近づいたせいで白と黒のだんだら模様が見えたし、いくつか窓があるのも見えた。岩の上に広げて干してある洗濯物まで、はっきりと見えた」(361ページ)

かつては「銀色の霧に包まれた塔のよう」に見えた灯台が、大きくそして間近な日常のような、でもまだ少し遠くにある存在としてジェームズに近づいてくる。この作品の好きなシーンのひとつです。

わがままに振る舞う父親への強い反撥心と、小さな頃から感じてきた逞しく頼りがいのある父親への尊敬のような気もち。そうした複雑な父親への思いが、第二部で描かれている長い時間の流れと第一部で描かれた細やかな家族の記憶と重なり、何とも言えない寂しさと暖かさの両方を、まるで自分の記憶を辿るような形で実感しました。

個人的には、感情移入しやすい文章だと感じています。その一方で、ぼくにとっては、強烈な個性と感じるような魅力をもった人物は出てきませんでした。

たとえば、ジョン・ファンテの初期の作品に出てくるアルトゥーロくんのような、一気に引き寄せられるような強い個性はこの『灯台へ』では描かれていませんし、たぶんそんなことウルフも意図していないのだと予想しています。

にも関わらずラムジー夫人のあの明るさと強さ、リリーの葛藤と勇気、そしてジェイムズの母への想いと父への複雑な気もちが、ゆっくりとぼくの心のなかに入り、根をおろしはじめています。