gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


名前のない望みを表現する

Tak.さんの「名前のない望み」をよんだ。

フリーライティングでくり返し出てくるのは、夕暮れの坂道を下っているイメージだ。

一日の仕事を終え、買い物ついでに駅前のいつもの喫茶店でお茶でも飲もうと家を出たところ。喫茶店では妻と待ち合わせている。駅は長い先道を下ったところにある。

そんな情景。

たぶん、それがぼくの「夢」なのだ。それは「夢は?」とか「やりたいことは?」と問われるときに期待される内容ではない。

正直にかくと、ぼくはこういうフリーライティングをできない場合が多い。20分くらいの長さのフリーライティングでは、本音の文章に出会えることが少ない。だから、こうした「情景」こそが自分の「夢」であると明言できるTak.さんが、とてもうらやましい ( ͡° ͜ʖ ͡°)b。

そういうぼくができることとして、まずはTak.さんが話題にしている「夢」や「やりたいこと」と少しちがう「目標 Goal」の話しからかいてみる。

ぼくがしっている中で「目標」をすてろと最初に明示的にいったのは Leo Babauta。でも彼は「目標」をすてたぼくたちが、つぎに何をすればいいのかは、はっきりとは示さなかった (とぼくは理解している)。

その一方で、Leo がクリアにかいていたように、そしてたぶん多くの人が実感しているように、「目標」はことばとして固定し公開した瞬間に質が変わってしまう。文章にして他の人たちによんでもらうために固定した「目標」は、色あせて魅力のない、自分にとってマイナスの存在になってしまう。

では、どうすればいいのか。

自分の心の声に耳をすませなさい、そのために毎朝とにかくたくさん頭に浮ぶことをかきつづけなさい、といったのは Morning Pages の Julia Cameron

しかしこれも、ぼくにとっては、うまくいかなかった。日々かきつづけても、ただそれだけでは自分が何をどうすればいいのか、よく分からなかった。自分の心の声の一部をきくことはできたけれど、それをどう「目標」の代わりにすればいいのかは、よく分からなかった。

で、「名前のない望み」の話しにもどると、Tak.さんは「目標」ではなく「夢」や「やりたいこと」について語っている。

ぼくから見ると「夢」ということばは「目標」より広い意味をもっている。子どもじみていてもいい気がするし、(お金を稼ぐための) 仕事に囚われなくていいし、逆に仕事をとおして手にしたい「夢」もあってもいい。

そして「やりたいこと」も「目標」とはちょっとちがう。よりスケールレスというか、今日「やりたいこと」もあるし、今年中に「やりたいこと」もあり、10年後までにやっておきたいこともある。

自分の食欲のために「やりたいこと」もあるし、この世界にくらす人や生きものみんなのために「やりたいこと」もある。

そんな「夢」や「やりたいこと」を短い文章にまとめられたり、それが何年もずっと同じままだなんて、よほど運のいい人か運の悪い人だろう。

でもTak.さんがいうように「情景」としてであれば、文章にできるかもしれない。もう少し広く考えると、少しちがう文章、たとえば物がたりにしたり、文章以外の形として絵に描いたり、あるいは音楽にしたり、それともダンスや演劇として表現しつづけることで、その「情景」を表現できるかもしれない。

あるいは、もしかすると人間というのはみんな自分の生き方をとおして自分なりの「夢」や「やりたいこと」表現しているのかもしれない。

Tak.さんのこのブログをよみながら、そう思った。

おっさんとしてひとついえるのは、オマエに「夢」はあるのかと訊かれたら、はっきり「Yes」と応えることはできる。

でも「それは何か?」と訊かれたら、今のところしどろもどろして答えられない、ということもおっさん的に自覚しているつもりである。