on outline processing, writing, and human activities for nature
シトロエン2cv (フランスの車が好きな人たちはドゥセボゥと呼ぶことが多い) のドアをあけて特徴的な柔らかいシートにすわり、少し姿勢を正してまずエンジンをかける。
キャブレターの車だからチョークボタンをいっぱいに引き、イグニッションキーをまわしてエンジンがブルンとかかったらすぐにチョークボタンを半分までもどし、エンジン音がほどよい回転数 (頭の中では1000回転くらい) に落ちつくところまでチョークをゆっくり押しもどす。
エンジンがかからなかったらチョークボタンを全部もどし、アクセルペダルをいっぱいに踏みこんでからイグニッションキーをまわす。ぼくの車の場合、95%くらいはこのいずれかでエンジンがかかる。エンジンがかかったらアクセルを戻しながら回転数が下がらない程度にチョークを引く。
そして、シートに背中をあずけエンジン音に耳を澄ます。
2cv のエンジンは、大もとの設計がたぶん戦前で排気量 602cc (最初の市販 2cv のエンジンは 375cc)。シリンダーが地面と水平方向でたがいに逆方向に置かれた、水平対向 (やけにかっこいい響きです) 2気筒の空冷エンジン。
柔らかくて円いエンジンの音。これをカタカナにすると「クルルル…」がいちばん近い感じ。
エンジンが暖まり回転数が上がると「クィーン」という音に変わる。よしよしと心でつぶやきながら、チョークボタンを「クルルル..」という音に変わるまで押しもどす。
この音の変化を聞いているだけで、元気の目盛が1ミリ上がる。
急いでいるときは、暖気せずにチョークボタンを引いたまま、アクセルを踏みすぎないよう気をつけながら、すぐに走りはじめる。
多くのキャブレター車の場合はエンジンの暖気が大切らしいけど「2cv ならあまり気にしないで、すぐ走り出してもダイジョブですよ」というメンテナンスしてくれてるガレージの人の話しを、都合よく信じることにもしている (笑)。
暖気なしで走り出した場合はアクセルペダルを踏んだときのエンジン音の反応を聞きながら、アクセルを踏みすぎないよう、でもしっかり踏みこむ。
信号まちのあいだも、エンジン音に耳をかたむける。例の「クルルル…」という音が聞こえたら OK。
勘ちがいしてる可能性もあるけど、東北や関東の春から秋なら1分ほど1500-2000回転くらい (と音で予想してるだけ) に抑えて走れば暖気終了。チョークを全部もどし、アクセルを遠慮なく踏んでもいいことにしている ( ͡° ͜ʖ ͡°)b
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シトロエン 2cv に乗るとたとえばこんな風に、エンジンをかけて走り出すだけで車と会話できる。
今の車の多くは、何も考えずにたとえばボタンを押すとエンジンがかかり、何も気にせずにアクセル踏めば走り出す。そして何よりも、エンジンの音がほとんど聞こえない。
2cv が生まれたのは1948年。それから70年のあいだ、とくに最近30年くらいのあいだに「便利さ」と「静かさ」を目指した自動車の技術が磨き上げてきたのだろう。
2cv に限らず旧い車 (英語だと historic cars と呼ばれることが多い) では、人から見えない裏方に隠されているエンジニアリングのすばらしさを実感できる。現代の車の「便利さ」がもち去ってしまった車との対話の価値を身をもって感じられる。
これが、構造のシンプルな旧い車に乗るすばらしさのひとつだと、ぼくは考えている。
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もうひとつの旧い車の大切な魅力として、自分で調整や修理ができる点もちょっとだけかいておきたい。
たとえばエンジンがかかり難くなったとき、ぼくのような高校や大学で工学と関係ない人生を送ってきたおっさんでも、ガレージや修理工場の手を借りる前に自分でできる対策がいくつもある。
たとえばとりあえず、エンジンに送りこむ空気の燃料混合比を変えてみる。つまり、キャブレターのスロー調整。
2cv ならエンジン上に置かれているキャブレターの前面下の idle mixture screw をマイナスドライバーで回す。時計回しで燃料が薄く (混合比が小さく)、反時計回しで濃くなる。
駐車してエンジンをかけた状態で混合比を薄くしていくと「ぶるん、ぶるん」とエンジンの回転が不安定になり、やがて止まる。濃くしていくと回転数が上がって安定するように感じるけれど、濃過ぎるとプラグの先端がやがて真っ黒になってしまう。
試行錯誤しながら自分が納得できる吸気の濃さが見つけ、アクセルを踏んだときの反応が自分の思うような軽さになったときの嬉しさは、何といえばいいか、世界の法則のすべてが分かったような満足感がある。
登り坂のカーブなどで、新しくて速そうなスズキの Swift やシトロエン C3 なんかのコーナリングに、瞬間でも着いていけたときなどは、車をおりて道を歩く人たち皆とハイタッチしたくなる (笑)。
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旧い車は、会話しながらていねいに乗れば今の車よりも壊れにくいと、仲のいい友人や家族には話している。だって、できている部品の数が桁ちがい (100分の1、いや千分の1、いやいや1万分の1?) に少ないのだから。
そしてシンプルだからこそ、たまに不具合が起こったときにも、壊れた理由を自分が理解できることが多いし、自分で直せることも少なくない。
そうしたプロセスを通して、たとえば自分の乗っている車をデザインし道具として世に出した人たちの、ため息のでるようなすばらしく気の効いたアイディアと、それを実現させたたくさんの技を、身近に感じながら自分のものにできる。
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車は道具。道具として使われているときこそ、車がいちばん車らしく生き生きしている瞬間だと思うことが多い。
人と道具のつきあい方はいろいろであり、そこがまたおもしろいところ。
でもせっかくの道具だから、5年か10年、あるいは20年かそれよりもっと長いあいだつきあう存在として、いっしょに楽しい時間を過す道具を見つけ、つきあっていくのが、ぼくの個人的で細やかな夢。
そういうつきあいをする相手として、たとえば 2cv のような旧い車はとてもいい存在だというのが、ここでかきたかったぼくのヘナチョコ仮説。