on outline processing, writing, and human activities for nature
ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読み終えたあとの感想、2回目です。
ポッドキャスト「良い夜を聴いている」(第32回) でヨイヨルさんと蛙坂 (あさか) さんもお話ししていましたが、この作品ではある登場人物ひとりの人生のなかでも、複数世代にわたる人たちのあいだでも、同じことを繰り返す光景がいくつも登場します。
ここでは、この「繰り返し」について少し書いてみます。ネタバレたっぷりです (笑)。
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まず複数世代にわたる繰り返しのいちばん目立つ例として、同じ名前を子どもたちに名づけつづけることが挙げられます。
いちばん極端な例は、第2世代のアウレリャノ大佐の子どもでしょうか。アウレリャノ・ホセがひとり、そしてそれ以外の17人もすべてアウレリャノです。
この登場人物同名問題のせいでぼくたち読者は、最初に混乱しそうになります。でもそんなことは当然なんだという形で、説明なしに物語は進みます。
そしてすぐ、同名の登場人物を見分けるための作者からの気遣いがあることに気づきます。たとえば第1世代のホセ・アルカディオは必ず「ホセ・アルカディオ・ブエンディア」とされ、第2世代のホセ・アルカディオは単に「ホセ・アルカディオ」になっています。
しかしそれで安心していると、さらに混乱させる工夫もちりばめられていることにも気づきます。手を緩めることなく、名前問題は複雑化されています。
たとえば第4世代の双子は"アウレリャノ"・セグンドと"ホセ・アルカディオ"・セグンドという名前です。そしてふたりの祖父 (第2世代) は"ホセ・アルカディオ"であり、祖父の弟 (大叔父) が"アウレリャノ"大佐です。
双子はそれぞれ祖父と大叔父に似ているのですが、似ている名前の組み合わせは逆転しています。"ホセ・アルカディオ"・セグンドは、大叔父の"アウレリャノ"大佐に似ており、"アウレリャノ"・セグンドは祖父の"ホセ・アルカディオ"に似ている。
双子どうしが見分けのつかないほど同じ顔という状況までイメージすると、まぁほんと、ややこしい。
ここまで手間ひまかけているのですから、ガルシア=マルケスにとって、この登場人物が同名になっていることは、ある程度大切な意味をもっていそうです。
たとえば、ブエンディア家の人びとがなぜこんな一見愚かに見えることをするのか、読者に考えてもらいたい、という意図をもっているのかなと思ってます。
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名前だけでなく、登場人物たちのふるまいにも世代を越えた繰り返しがいくつも登場します。とくにこの物語の鍵になるものとして、いわゆる近親相姦があります。
いとこどうしや叔母と甥など血縁の近い人どうしが結ばれ、子どもが生まれるという出来事が、最初の世代から (否、たぶんその前から) この物がたりの最期まで脈々と繰り返される現象として描かれています。
そのおかげでもあり(?)、ぼくのような小心な読者は、物語全体を通して何だかよく分からないけど、ハラハラどきどきしつづけます (笑)。
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もう少し短い時間のなかでの繰り返し、ある登場人物の人生のなかでやらかしてしまう繰り返しの例としては、たとえば第2世代のアウレリャノ大佐が反乱を32回起こし、そのすべてで敗れることが印象的でした。
反乱の失敗は大佐のせいではないかもしれませんが、大佐本人が敢えて敗れる道を選びつづけているようにも読めます。
そして、ぼくはつい考えてしまいました。なぜ彼は敗れるために反乱を起こし続けるのだろうか。
加えて晩年のアウレリャノ大佐は、日々、金細工の魚をつくり続けます。
その繰り返しを読みながら見ながら、ぼくはまた考えてしまいました。なぜ大佐は金細工の魚をつくり続けるのか?
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では、ブエンディア家の人びとは一生同じことを繰り返すだけなのかというと、もちろん、そうではない。
ある日ある瞬間に何かを悟り、その生き方を過激なまでに変えます。
アウレリャノ大佐は、長いあいだ保守党と自由党の区別もつかない、政治に無頓着な人でした。その彼が、舅のドン・アポリナル・モスコテ (保守党) による投票用紙すりかえを目の当たりにし、自由党として反乱を起こします。
敗れつづけながら、何度もの暗殺からも逃れながら、アウレリャノ大佐は反乱軍のリーダーとして、反乱側の人びとだけでなく敵側の人たちにも一目置かれる存在として20年にわたり活動を続けます。
32回目の敗北のあとにも、毒殺計画があったり、なんだかんだありそれがまたおもしろいのですが、ともかく彼はついにマコンドに帰ります。
帰郷後、すべてのものへの関心を失った日々のなかで、上述のように魚の金細工をつくり続けるのですが、マグニフィコ・ビズバル大佐の弟とその7才になる孫の惨殺を知り憤怒、もういちど蜂起する準備を進めます。
..とこんな形で、アウレリャノ大佐は自分が長くつづけてきた日々の繰り返しを、ふと、別の繰り返しに変えています。
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ここでぼくは、ボルヘスの『アレフ』で出会ったことばを思い出しました。
「およそ人間の運命は、いかに長く複雑なものであっても、実際にはわずかに一瞬から、人間が自分は何者であるかを永遠に知る瞬間から成る」(J.L.ボルヘス. アレフ. 74ページ. 岩波文庫)
同じ名前を何人もの子につける人びとの様子は、一見、愚かなようにも見えます。まちがっていることが分かっていても止められないのは、やはり賢明とは言えない。
でももしかすると、ブエンディア家の人びとは、単に愚かさだけから繰り返しているのではなく、自分が何者であるかを知る瞬間をとおっているからこそ、繰り返しているのかも知れない。
自分を知ったからこそ、たとえばアウレリャノ大佐は、ある出来事や風景を見たときをきっかけに、それまでの繰り返しを止めて、大きくちがう別のことを繰り返しているのではないか。
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そして「繰り返し」と「孤独」の関係についても考えました。
たくさんの人が登場する物語であるにも関わらず、この本のタイトルはなぜ『百年の孤独』なのか。
一見、周囲から理解できない愚かに見えることを繰り返すブエンディア家の人びとは、自分が何者であるかを、もしかすると家族どうしですらたがいに理解できない形で知っている。誰も理解してくれる人はいない。
そういうブエンディア家の人びとの心のなかにある感覚が孤独なのではないか、と言うのが今のぼくのヘナチョコ予想です。
皆さんのご意見はいかがでしょうか。よろしければ聞かせてください。