on outline processing, writing, and human activities for nature
ガルシア=マルケスの長篇『族長の秋』(鼓 直 訳)を読み終りました。同名の本 (ガルシア=マルケス全小説シリーズ) におさめられている作品です。
予想とは違う方向で、予想を遥かに越える良い作品でした。
以下は、ひと通り読んだ今の段階でのネタバレも含む感想。ネタバレしてもおもしろさは減らないどころか増えるようなつくりの作品ではないかと考えていますが、念のため。
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主人公である大統領を中心に起こったできごとを、引いた視点で、滔々とそして詩的に語る文体。
導入部からすると、語り手は大統領府に押し入る側の人物。その語り手が他の人へと遷り変わって行くのか、そうでないのかも曖昧にされているのだろうか、否そうではないのか。少なくとも語り手 (たち) のほとんどは、この大統領への畏怖と大きな意味での愛着のような気もちをもっているように感じた。
人々に尊敬され、恐れられ、人々の虐殺も姑息な手段で行い、暗殺の対象になり、暗殺を恐れ、それでも謁見をつづける時期もあれば、人々の前から姿を消す時期もある。アメリカなど大国や教皇などとの外交でも存在感を示しながら、それらをも通して、ますます孤独な気もちに浸る大統領と、この物語りの語り手の距離感がすばらしい。
民話のように、出来事を語る解像度は粗いように感じる。しかし読み進めるうちに、とくに強調される部分について細かい絵が読者の頭に浮かぶような仕掛けを感じた。
かぎ括弧は使われず、長いパラグラフがひとつの章のような役割を担っているだろうか。それが正しければ、ぼくの数えたところでは、全部で六つの章でできている。
最初のあたりで、大統領府へ押し入った語り手は、たくさんの牛だけでなく、ハゲタカに喰い荒らされた大統領の死体を見つける。大統領の死体が見つかるのはこれで二回目。
(え? なんだって!?)
この死体発見が少なくとも二回あることで、彼がいったい何度死んだのか、その時点で語られているエピソードがいつのものなのかが、巧妙に分かり難くなっているように感じた。
物語りは、何度も最期を迎え、何度も最初に戻る。そして恐らく同じときの同じ場所の場面が繰り返し語られる。その繰り返しの多いところほど、解像度が高くなる。そういう仕掛けになっているのかなと、予想している。
だからぼくたちは、安心して、二番目の章の途中から、あいだを飛ばして、たとえば最期の章の最期の締めくくりを味わうこともできる。それがネタバレにならないからだ。
それでありながら、読み進めていくと、たとえば最期の章で描かれている場面の解像度がとても高くなる部分がある。すべてを読むことで得られる感動があると、ぼくは思う。
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大統領は独裁者であり、何百年も生きているかも知れない。大きな足を引きづるように歩き、ヘルニアを患っているのだが生娘のような白くて滑らかな手をしている。
自分のちからと偶然のちからをとおして、彼は大統領になった。
彼はドミノに強い。たぐい稀な忍耐力、粘り強さをもち、ドミノを外交などの手段として使う。
(え? なんだって!?)
たぶん文字が書けなかった、妻のレティシアから教わるまでは、たぶんフォークとナイフなども使わずに食べていた大統領。
大統領には影武者がいる。その名はパトリシオ・アラゴネス。彼のおかげで余裕のできた大統領は、政務に専念できる時間が増えたらしい。
粛正を断行し、思想家や宗教家を国外追放する。政府を切り詰めたなかでも、厚生省はいちばん大事なのだと明言する。
ハリウッド映画のヒーローのようなかっこよさは、ひとかけらもないのにも関わらず、彼という人間(ほんとうに人間なのかも定かではないけれど)の個性に魅かれてしまう。
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大統領の生みの母ベンディシオン・アルバラドと、彼が唯一の妻としたというレティシア・ナサレノ、この二人の女性の描き方も好きなところ。
ベンディシオン・アルバラドの存在感は、彼女の生死と関係なく後半になるほど大きくなる。若い時代の物語りも絵が浮かぶようであり、大統領の母となったあとの老母っぷりも鮮烈な映像がぼくの頭に残っている。
レティシア・ナサレノは物語り半ばで颯爽と登場し、全体のなかで大きなリズムをつくっているように見える。結婚前のエピソードも結婚したあとの大統領との関係も、予想通りの予想外の展開。ひと言も台詞のない息子の存在感も大きい。
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大統領府の記述も印象的。
建物には窓が無数にあり、遠くから見るとまるで客船のよう。上にも書いたように、そのなかには牛がくらしている。だから古いのから新しいのまで牛の糞もあちこちに散らばっている。
大統領府への鉄の扉は、彼の英雄時代にはたぶん17世紀を生きた海賊とも思われている人の船からの砲撃にも耐えたらしい。その中庭には五世代を越える人たちが洗礼を受けた聖水盤があり、車庫にはペストを運んだ貨車に、彗星が現われた年につくられた山車、そして秩序ある進歩とやらを見送った霊柩車もある。
植民地時代には会堂だった牛小屋や鶏舎もある。愛妾たちが何千人もバラックにくらしているようで、そこにはカーネーションの鉢やアストロメリアとパンジーの植え込みもつくられている。
小アジアから大きな温室付の船で運んだシダレヤナギは森になり、その奥にあるシャッターは破れ、ハゲタカが出入りしている。
庭にあるバラの植え込みは、ほんとうに何度も何度も登場し、物語りのなかでも大切な役割を担っているように感じた。
そして、宮廷から見える海は、何があっても誰が何を言おうと最高に美しいし誰にも渡したくない。
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繰り返し語られる、彼の死と彼の生。そこに海も関係してくる。海の生きものたちも無関係ではない。
その独特の語りをとおして、ひしひしと伝わってくる孤独。そのなかで、大統領は何度も母であるベンディシオン・アルバラドの名前を口にする。
ちょっと飛躍するけど、アルトゥーロ・バンディーニにとっての母の存在を思いだした。アルトゥーロはジョン・ファンテの作品に登場するカトリックの家族に生まれ育ったイタリア系アメリカ人二世。
そして、何と言えばいいか、ほのかな希望のようなものを感じた。
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登場人物も少なく、あくまでも大統領という個人の生を、断片的にでも拡がりを感じる形で描いた物語りでしょうか。こういう作品を物語りと呼んでいいかどうかも、気になり始めました。
これからたぶん、何度も読み返したくなる作品にまたひとつ出会えたという、幸せな気もちを愉しみながら、書きました。
では。