gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


フルトラッキング・プリンセサイザ

 

池谷和浩さんの『フルトラッキング・プリンセサイザ』の最初にある同名の中篇を読みました。第五回ことばと新人賞の受賞作品。

以下、ひと通りよみ終わった時点の感想です。いわゆるネタバレも含まれていると思います。そのせいでおもしろさが減ってしまう作品ではないと考えていますが、念のため。

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フルトラッキング・プリンセサイザとは何なのか。主人公うつヰがどんな職業に就いているのか、若いのか年をとっているのか、性格や背格好はどんな具合なのか、そして物語りの舞台はどこで、時代はいつなのか。

説明的な情報を本文で短く示すことはできるだろうけど、この作品では少なくとも簡潔な言葉で語られたりしていない。それらは作品を読みながら、読者が体感すればいい。

この作品では、うつヰが生活のなかで見ている光景が頭のなかの想いの揺らぎまで含めてきめ細かな解像度で描写されていると、ぼくは感じた。

お気に入りは、たとえばつぎの文章。物語りがはじまって少し先、8ページの真んなか辺りからのパラグラフ。

「堀尾の隣に、腕組みをした人が歩いてきた。背中の方に角張った物が突き出していた。うつヰから見て反対側の肩にトートバッグを掛けているようだった」

堀尾はたぶんうつヰと同じ会社で働く、渉外のような仕事を受け持つ人だろう。うつヰの目には、堀尾の横に腕組みした人がおり、その背中側に角張った物が突き出て見えたが、すぐに肩に掛けたトートバッグだと判明する。

著者の池谷和浩さんは、ぼくたちが日々の生活のなかで他人と出会ったりすれ違ったりするときに伝わってくる情報の順番を、滑らかなカタチで情報量豊かに表現することを大切にしているのではないか、とぼくは考えた。だから、うつヰの視点と頭のなかをなぞる感覚を愉しんでみよう。

「肩にトートバッグを掛けて腕組みをすると安定するのだろうか。うつヰは自分でそうしてみるところを想像してみた。バックパックがいいのかトートバッグがいいのかについて考えてみることがある。移動中や現場で物を即座に取りだすには良さそうだが、身に着けたままあれこれの作業をするには不便そうだ」

トートバッグを肩に掛け腕組みすると安定するのか頭のなかでシミュレーションする。このあたりには、うつヰの生きる姿勢というと大げさだけど、日々の暮らし方が見てとれる。それからトートバッグを身に着けて作業するのは不便、という思考の寄り道をした上で

「腕組みをしている彼女はこのイベントの運営を受託している大手の会社のディレクターということを思い出した」

つまりその人は現場であれこれ作業などしない人、ディレクターだということ思いだす。腕組みした人がどこの誰なのか、うつヰの頭のなかの風景を通して描かれている。

このディレクターが物語り進行のうえで大切な人なのか、そうじゃないのか。「神の視点」で正解を説明するようなことは、もちろんしない。

勘ちがいしているかも知れないけど、うつヰの仕事はたぶんイベントなどのリアルな世界にバーチャルな世界を組み込む、あるいはバーチャルな世界にリアルな世界をはめ込むような作業をすることだろうと予想中。

イベントの様子はでてこないので、それ以上のことはぼくには分からない。でも、それはそれでかまわない。

現場以外のたとえば経理処理というデスクワークの風景も、同じカタチでしっかり描写されている。もしかするとうつヰは、デスクワークも得意なのかも。

ゆうべ部長が口にしたユーキューは有給休暇だけれど、有給と略すのか有休と略すのかを気にするうつヰの気もちが、繰り返し描写される。

それから経理処理の裏紙問題。人事の人が、いつも月末処理の案内に「領収書は裏紙に貼ってください」と書いてある。なので新入社員の門脇は、経費申請用紙の裏に領収書を苦労して、貧乏揺すりしながら貼りつけているが、それは「紙の裏」であって「裏紙」ではないはずだ。にも関わらず部長は門脇に裏紙の正しい定義を伝えない。なんてことだ。

この中篇作品全体を通して、うつヰが工夫しつづけているアイディアのログやリマインダづくりの話しがちりばめられている。それがうつヰの性格描写にも繋がっているのが個人的に興味をもったところ。

物語りの後半でうつヰは、今働いている職場を辞め、少なくとも週末は学校へ通うことになるらしいことが見えてくる。それがどこのどういう学校で、うつヰがどんなことを学ぶのか研究するのか、これもすぐには分からない。

うつヰが職場を去る理由も、明示的に語られていないと思う、たぶん。うつヰが今の仕事から次のステップを踏む出そうとすること自体が、この物語りの中心になるテーマではないのだろう。職場を去るという出来事を劇的に演出する必要はないのだ。

このうつヰの気もちは、この物語りが始まる前から決まっていた事実のように見える。職場の仲間からもうつヰがいなくなることを快く受け入れ、祝福している。

解像度の高い、限られた視野のなかに見える日々の出来事と、それらの刺激が鍵になってさ迷うように頭に浮かぶ思いこそ、ぼくたちが日々を暮らしながら体験している風景である。

この作品では、それらをリアルに描くことが大切にされているのではないか。

そして、このカタチで語られるうつヰの日常の一部として、フルトラッキング・プリンセサイザも登場する。

フルトラッキング・プリンセサイザとは何か。ハードウェアの呼び名なのかソフトウェアなのか、あるいはその両方を合わせた名前なのか。それはたぶん、バーチャルな世界をつくるいくつかのサービスを繋ぎ、それらのサービスの違いを気にせずに行き来できるようなシステム。

フルトラッキングはフルボディトラッキングで、プレイヤーの身体の動きすべてを追跡しながらバーチャルの空間に再現する仕掛けだと思う。だからプレイヤーはきっと実際に歩いたり手を振ったり握手したりしながらプレイするのだろう。

うつヰは恐らく、暮らしているアパートの部屋でだけこのプリンセサイザをつかっているので、持ち歩き自由ではないハードウェアが必要なのかも知れない。

このプリンセサイザを使って入ることのできる世界は、鉄道の京王線を中心とした空間。

駅ごとに世界がつくられており、そこに王女がいる。誰もが日替わりで王女になれるワケではなく、同じ人が王女としてプレイしつづけているように読める。それぞれの駅の世界をつくってきた人が王女だろう。

王女は自分の駅を離れ、何人かが集まって打ち合わせしたり、会話したり、いっしょに歩いたりもする。

そしてぼくたちは物語りのなかで、うつヰ視点の頭のなかを通して、現実とプリンセサイザの世界を行ったり来たりする。この感覚がすばらしい。

現実世界のうつヰは、職場だけでなく、学園都市にある大学の学生寮にくらす先輩の部屋を訪れたり、新幹線で三時間程度移動した先の、たぶん北陸か東北の、ちょっと良い雰囲気の港町へ出張したりもする。

プリンセサイザを使って入った空間でうつヰは、たしか多磨霊園駅から武蔵野台、飛田給、西調布、調布、布田、国領、柴崎、つつじヶ丘に芦花公園..と、八王子方面から新宿方面へ移動する。

その移動が進むに連れて、プリンセサイザの世界のリアリティも深みを増すように感じ、うつヰの世界の現実とプリンセサイザの世界のどちらがどちらか、混乱してしまうときもある。

常にうつヰからの視点で、その体験を解像度高く思考の回り道も含めて描くことで、VRのある日常がより身近な形で、現実とVRの境界線の曖昧さを実感できる。

何か大きな出来事に繋がりそうなエピソードも、いい感じでリアルに物語りに入っている。ちょっと気になる、でも事はすぐには進まない。

中央線で東京から2駅目で降りたそばにある大学の先生をうつヰは訪れるが、先生は部屋にいない。学長室にいることもあるらしいから、その先生は学長なのだろう。うつヰは会社を辞める報告をしたかったらしいし、以前に内定が決まったときも報告に来たらしい。

この学校は、内定が決まったり就職先を辞めたりするときに、学生や卒業生が学長にあいさつにくるような人間関係が育っている、小さめの大学なのかも知れない。そしてうつヰの働く業界も、そういう人どうしの顔が見えるくらいの規模で動いているのかも知れない。加えて、うつヰの人柄もあるだろう。あるいは、先生とうつヰの関係が、それなりに強いものなのかも知れない。

内定が決まったとき、大学院へ進学せず就職を選んだうつヰ。そのとき聞いた先生の声にくらべ、このあいだの夏に聞いた先生の声が枯れていた。記憶と記憶を比較して、うつヰはそれが気になっている。

このあたりの文章も、個人的に好きなところ。先生の咽は大丈夫だろうか。少しどきどきするような、そしてうつヰと先生の人柄や関係の描かれ方が、いい感じ。

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おっさんのぼくが、うつヰという若者の日々を解像度高く見ることができる。

恐らく大学の学部を卒業して数年以内の、VRという技術を駆使して現実の世界の舞台やコンサートをつくる仕事をする、そしてフルトラッキング・プリンセサイザがつくりだすバーチャルな世界も日常の一部にしている、うつヰの日々を愉しめる。

おっさんの適当な想像では、うつヰはたぶん大学院で学びながら、でも現場での仕事も大切にしながら、これから数年のときを過ごすのだろう。

そこで何が起こるのか、そして先生や先輩、うつヰの友人や部長たちの生活はどう変わり、うつヰとの関係はどう変化していくのか。

思わずうまいとうなってしまったエンディングを読み終えて、いろいろ期待したり、心配したりしてしまうのは、ぼくだけではないだろう。

今のところ、ぼくはそこに、この作品のすばらしさを感じている。