gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


ジョン・ファンテを読みました

ジョン・ファンテ「デイゴ・レッド」を読み終わりました。

これで日本語に翻訳されているファンテの本6冊すべてを読んでしまったことになります。ちょっと寂しいというのが正直な気もちですが、すぐ再読を始めようと決めたら、寂しさも五分の一くらいに小さくなりました。

ファンテの本を読み始めたきっかけは、ポッドキャスト「良い夜を聴いている」の ファンテ作品「塵に訊け」を紹介する回です。「塵に訊け」を翻訳した栗原俊秀さんと、この番組をやってるヨイヨルさんの熱くて愉しそうなやりとりを聴き、ファンテの文章を読みたくなりました。で、まずはと「塵に訊け」を買いました。

(この回に限らず「良い夜を聴いている」はおもしろいですよ。おすすめです)

「塵に訊け」を読み終わったときの「この作品が終わってしまった」という寂しさと、感激というか何というか、道をすれちがう人みんなに握手したいような気もちになったのは、よく覚えています (笑)。

読むのが遅いことこの上なしのぼくが三日で読んでしまったのですから、たぶんよほど相性がよい文章に出会ったのだと思っています。

それからむさぼるように四冊読みました。次に読んだのが「バンディーニ家よ、春を待て」それから「ロサンゼルスへの道」、そして「満ちみてる生」と「犬と負け犬」。順番はとくに意味がありません。

翻訳されている残りの一冊、短編集「デイゴ・レッド」はもったいなくて、ゆっくり読みました。気に入った短編は、もう一度読んだりしながら二週間くらいかけて少しずつ。

ぼくがファンテ作品に惹かれるいちばんの理由は、語り手たちの軽快で人を喰ったようなユーモアいっぱいの言葉で語られる、登場人物たちへの痛々しいほどの赤裸々な想いと、怒りや偏見に満ちた罵詈雑言。そして、解像度の高いそれらの言葉のなかに、慈しみや憧れに似た気もちが垣間見えてしまうからではないかと、考えています。

読みはじめると語り手アルトゥーロの声が聞こえてきます。その声で語られる物がたりを通して、彼が繰り返し罵倒する母親や妹、父親、教会や教区学校の子どもたちや神父、シスター、そして缶詰工場で働くメキシコや日本、フィリピンからの移民たちに、何とも言えない人としての魅力を感じてしまうのは、ぼくだけではないと思います。

今の段階で、とくに印象に残っているのは「塵に訊け」の大地震の描写と後半のカミラと一緒に犬を飼い始めるくだり、そして最後のあのシーンでした。こう書いているだけで涙が出てきてしまいます(笑)。

「ロサンゼルスへの道」のとてつもなく臭い缶詰工場でアルトゥーロが吐きつづける章にも、感動してしまいました。こんな文章に出会ったことがなかったからかも知れません。

物がたりの構成も、よく練られているなぁと感じるときがありました。とくに「バンディーニ家」と「塵に訊け」のふたつ。「バンディーニ家」は、他の作品とちがい三人称で語られる物がたりです。基本、長男のアルトゥーロの視点ですが、途中で母親マリアの視点へ移ってから父親ズヴェーヴォの視点にシフトし、最後にまたアルトゥーロの語りへと戻ります。この揺れ動きかたがいいなと思いました。

犬の描写が、かわいかったりちょっと気もち悪かったり、かっこよかったり下品だったり。それぞれ大きさも品種もちがいますが、どれも活き活きと走りまわり、ファンテの犬たちへの想いがあるからこその表現ではないかと考えました。

「良い夜を聴いている」を聴き、栗原俊秀さんが翻訳したジョン・ファンテの作品に出会ったおかげで、ファンテに限らず興味をもった文学の作品を日々読みつづける生活が、何十年ぶりかで戻ってきました。

ぼくは本を読むのは遅いですし、これまでに読んだ本も決っして多くはないと思います。それでもやはり、日々、本に触れる時間を少しでももつことは愉しい。そのことに改めて気づくことができました。

なのでしばらくのいあいだ、ぼくはいろいろな場所でこう言いつづけることになると思います。

「ファンテはいいぞ」