on outline processing, writing, and human activities for nature
文学作品には読み難い文章でつくられたものがあります。個人的には、読み難い文学作品を無理して読む義務はないと考えていますが、読み難いのは分かっているけれどやっぱりよみたい..という作品もありますよね。 たとえばぼくにとっては、ボルヘス『伝奇集』やガルシア=マルケス『族長の秋』が、そんな本です。
ここでは、読み難い文章でできた本とどうつきあっているのか、今のぼくがやっていることを書いてみます。
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まず、読み終わりたいという気もちを諦めます。そして、数ページだけでも一章だけでもいいからよんでみることにします。ほんとに数ページで読むのを止めたとしても、それはそれで良しという心意気(?)です。
上にあげたボルヘスの場合、短編はほんとうに短いことが多いので、とにかく目の前にある作品ひとつを読んでみます。
ガルシア=マルケス『族長の秋』には章という区切りがないかも知れません。長いパラグラフがひとつの章のように見えます。そのひとつのパラグラフも長いですから、やはり目の前にある文章のひとつのエピソードみたいなものがひと段落する(とぼくは感じる)ところまでをよむことにします。
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実際に読みはじめたら、今読んでいるセンテンスやパラグラフが表現しているものの絵を頭に浮かべるようにします。
これはぼく限定かも知れませんが、ガルシア=マルケスの文章からはうまく絵を浮かべられることが多く、ボルヘスもちょっと割合が少なくなるけど、文章から絵を思い浮かべながら読めることが多いように思います。
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「共感する」や「ハマる」、そして「没頭する」といった状態は、目指さないよう心がけています。やや抽象的なことばですし、どうすればその状態になるのか、ぼくにはよく分からないことが多いからです。
もちろん、読んでいるうちに結果的に共感したりハマったりしたら、その幸運に感謝しながら読み進めますが、最初はむしろ、共感できなくてもハマらなくても、そして没頭できなくても読み進めるのだと割り切る方が、より現実的なやり方だと考えています。
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人や場所、ものの名前をたくさん覚えた方がよさそうな作品の場合、できる範囲でいいので、大きめの机やテーブルの前に座る機会を増やし、コンピュータを開いてノートをとりながら読むことにしています。
記憶のためにノートをとるという役割が大きいので、ノートした内容を読み直さないことも多いと思います。もちろん、いろいろ忘れた頃にそのノートを読み直すのも愉しみのひとつではあります。
今とっているノートは、ほとんどデジタルです。Emacs org-modeというアウトライナーで、他の諸々の文章といっしょにアウトラインのなかにノートをとっています。テキスト形式のファイルです。
文学作品以外の文章、たとえば論文や意見をまとめたエッセイなどは、ちょっと本腰入れてアウトライナーにノートをとりながら読むことがあります。その方法については4年前になりますが「かーそる」という電子雑誌の記事に具体例も入れてまとめました。よろしければ読んでみてください。
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話題が少し逸れました (笑)。
文章を理解できなくても気にしないようにしています。このセンテンスやパラグラフはこういう意味かなと、予想をつけて候補として取っておくことはよくありますし、まるでチンプンカンプン(←死語?)という場合でも、まぁ仕方ない。
むしろ理解できない状態がおもしろい場合もある、というのが文学なのかなと、最近はまじめに考えることもあります。
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それぞれの章をよみ終わったあと、あるいは本文をすべて読み終えたあと、とにかくできる範囲でいいので、頭に浮かんでいることを文章にします。理解できないときは正直に理解できていないことをノートに書きます。これらのノートも上に書いた org-mode の同じ場所に書いています。
こうした読後ノートがあると、数か月あるいは数年たって本の内容を思い出したくなったとき、読み難い本を再読するハードルが低くなります。
読後ノートを読み直すことは個人的に大好きな作業のひとつです。再読でちがうものが見えてきたときの嬉しさったらありません。なぜこのちがいが生まれるのかを考えたりするのも、けっこう嬉しい瞬間です ( ͡° ͜ʖ ͡°)b。
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最後におっさん的アドバイスをひとつ。
上に書いたことをやっても読めない本があります。文学はこれまで少ししか読んでこなかったので勘ちがいしている可能性もありますが、読めなかった本たちの一部は数か月か何年か、あるいは10年以上かたったあと、自然と気軽に読めることもあります。
読み難いと感じた本も時間がたつと読みやすくなるときがある。これも人間と本の関係のおもしろいところじゃないかと考えています。