on outline processing, writing, and human activities for nature
問いに気づくためには、あたり前があたり前でないことに気づける心もちが大切。
そのためにたとえば、人がかいたり話したりしていることを「ほどよく」疑いながら理解したり、自分が分らないことを率直に訊くことが大切かな、と思っている。
自分が質問することを前提に講演や講義を聞くのもいいかもしれない。
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ぼくの場合だけど、たとえば自分の分野の論文をよむときには、その文章のすべてを疑ってかかった時期があった。
しかしこれはけっこう大変。
一行よみすすむのに何日も何週間もかかることがふつうにあった。それは精神的にも社会的にも負担が大きくて、学部生や大学院生じゃないと、周囲も自分もタフな時間を過ごすことになる。
ぼくは大学院に入る前に会社やNGOで働いていた時期が合わせて7年あった。
すべてを疑うよみ方をはじめた時期と、社会人をはじめた時期が重なっていたため、よむ時間をつくるのも、よんでいないときに同じ問題にフォーカスする時間をとるのも、いろいろ難しかった。
同僚や上司、そして家族がいい人たちだったからこそ、この時代を何とかうまく過ごすことができたと感謝している。
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問いをみつける対象が本や論文、講演や講義ではなく、質問する相手がいない場合、たとえば自然そのもののときはどうすればいいのだろうか。
これも基本は同じで、みていること感じていることを、いろんなスケールで「ほどよく」疑ってみるのがよいと考えている。
この「ほどよく」を学ぶために、本や論文、学会大会の発表を聞いたりオンラインの情報をよんだりしながら、その分野で自分がおもしろいなぁと思う研究をしている人たちが、どういう問いをみつけているかをまねしながら試行錯誤するのがいいだろうか。
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それでもなかなか、自分が取りくみたい問いがみつからないことも多い。
そういうときのオプションとして、他の人のみつけた問いに取りくんでみるのもいいなと思っている。
他の人の問いを出発点にして、その問いの答えを探すうちに、おっさん的経験からすると高い確率で自分の問いに出会うことが多い。
大切なことは、問いをみつけたいという欲望をもちつづけることなのだ。