on outline processing, writing, and human activities for nature
四国の実家に帰ると、西讃 (香川県西部) のことばで母や近所の人たちとのやりとりを聞くことが一気に増えます。
そのやりとりは、たとえば東京あたりの会話でつかわれる言葉とは単語やアクセントがちがうだけでなく、文章の省略の仕方やそれに合わせたアクセントやリズムの変化があって、それはもちろんテレビなどでよく流れる大阪や神戸、京都などの関西の言葉ともちがう西讃ならではの作法があるように思います。
会話で伝えようとする情報そのものも大切だけれど、その作法を分かりあっている者どうしのやりとりを愉しんでいるようにもみえます。
こうした会話の作法のやりとりの愉しみは、たとえば日本の岩手や栃木、そして神奈川西部でのフィールドワークで出会った人たちのあいだでも、旅先や職場で出会った英国や米国などの同じ地方の人どうしの英語のやりとりの中にも感じることがあります。
ぼくは、さまざまな場所で生まれ育ってきた会話の作法が、この地球上で変化しながら存在していること自体が、とてもすごいことのように思います。
そしてたとえば、讃岐という場所の会話のリズムと作法が生みだす日常を文章として表現したり、あるいはたとえば、讃岐で生まれ育った人が初めて岩手をおとずれ、そこでくらす中で讃岐の人と岩手の人たちのあいだに起こる小さな変化を物がたりにしたいと思うことが、たまにあります。