gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


仲間と会う、しごとをする

もうウン10年も活動してきた学会の大会に参加しています。

大会は年に1回、会員が集まって自分の研究で見えてきたことを話したり、今はこれがオモシロイのだゼとみんなにアイディアを出してみたりする場所。

似たようなテーマや題材に興味をもち、その研究を目指す人たちが集まる場であり、そういった仲間と久しぶりの再開と互いに息災であることを喜びあう、何よりも幸せな瞬間です。

研究仲間とあれこれ語りあい議論しあう時間は、他に変えがたい宝物かもしれません。

しかしその中には、少し苦しい瞬間もあります。

たとえば自分の研究に興味をもたない人たちからの冷たい (と自分が感じてしまうような) 反応。

自分と興味や研究へのアプローチのちがう人たちがいるのはもちろんアタリマエなのですが、そういう人たちの反応を直接目にすると、たとえそれが予想していたものだとしても凹むこともありますよね。

話し方や表情だけの「問題」だとも思うのですが、場合によってはそれを自分全体への非難と感じることもあるでしょう。また、それが礼儀正しいカプセルにつつまれているからこそ、ちょっと傷つくこともあります ( ͡° ͜ʖ ͡°)b

あるいはたとえば、知人の就職や昇進。

生きていれば当然、順風満帆ではないときがあります。で、研究者としての人生を順調に進んでいる (と少なくともその人たち自身は感じている) 姿をそばでみたり、その人と話したりするのが、嬉しくないタイミングもあります。苦しい瞬間でもあります。

たぶんそれが理由で学会大会に参加するのが苦手、あるいは参加しないという人たちもいます。

でもしかし。まぁ色々あるけれど、総じていうと学会の大会へできる範囲いいからに顔をだしながら、自分のしごとをつづけることはいいことかなと、今のところは考えています。まわりの人たちにも、そう話しています。

おっさん的な経験からすると、ちょっとおこがましいかもしれませんが、少なくともぼくのような弱い人間は、どちらかというとひとりで生きているよりも、他の人と笑いあいながら、肩たたきあいながら日々を過ごす方が、元気がでることが多いように思います。

何年かぶりにあったあの人が、今もこつこつとなぞ解きをつづけてきて、今ここまで分かりましたよ〜という話しを聞いたときの、なんていえばいいか心の奥の方から嬉しくなる感覚は、生きる醍醐味のひとつではないかと考えています。

しごとが楽しくなりますし、生きててよかったなと思うことが多いように感じています。

そんな時間を過ごしたあとには、自分の欠点や弱点じゃないかとつい気にしちゃうポイントを攻めたてられたように感じたあのことばも原寸大にまで縮み、場合によっては役に立つアドバイスに変わったりもします。

まぁそんなことは小さいことだと笑いながら、一歩踏み出すエネルギーにもなったりします。