gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


2666

 

ロベルト・ボラーニョ『2666』(野谷文昭・内田兆史・久野量一訳、白水社)を読み終りました。ぼくにとって初めてのボラーニョ作品です。

で、以下は少しネタバレを含む『2666』の感想。ネタバレしても価値は下がらない作品だと思っていますが、念のため。

この長編は5つの部からできていますが、さらに引いて見ると大きく、1) ベンノ・フォン・アルチンボルディという謎の多い作家と彼の作品から影響を受けた人たちの物語と、2) サンタテレサというメキシコ北端の架空の街で起こる女性連続殺人事件に関わる人たちの物語の2つからできていると思っています。この作品を読んだ皆さん、いかがでしょうか。

では、この大きな物語りをとおして、ボラーニョは何を描こうとしているのでしょうか。

勘ちがいかも知れませんが、この長編の中心になるのは、最後の「アルチンボルディの部」とそのひとつ前の「犯罪の部」のふたつではないかと思っています。

そして「アルチンボルディの部」前半では、戦争が描かれています。

1920年にドイツ西部で生まれたハンス・ライターと彼が東部戦線で直接体験した戦争。前線で負傷した彼が療養のため滞在した家で偶然見つけたユダヤ系ロシア人アンスキーの手記をとおして体験した広大なロシアの旅とアンスキーが出会ったロシア人SF作家イワノフの半生。そしてハンスが戦後の捕虜収容所で出会ったドイツ人ツェラーの重い戦争体験と、それを知ったハンスのとった行為。

後半では、ハンスと妻インゲンボルグの儚く燃えるようで死の影とそれを越えた逞しさを感じる生活、そして作家アルチンボルディの誕生。さらにハンスを巨人のように尊敬し愛していた妹ロッテとその家族の物語りが描かれています。

作家アルチンボルディが誕生したシーンには、心動かされました。

アルチンボルディのそれまでの人生と、たとえば「批評家たちの部」や「アマルフィターノの部」に出てきた、彼の小説に少なからぬ影響を受けた登場人物たちから見た、謎につつまれた作家アルチンボルディのイメージが交錯し、ボラーニョの描こうとしている世界の構造の一部が見えたような気がしました。それは、今まで本を読んできたなかで感じたことのない新しい感覚でした。

「犯罪の部」ではタイトルどおり、連続殺人が描かれています。

メキシコ北部、アメリカ合衆国との国境に近いサンタテレサという架空の街で1993年から1997年までの5年間に起こった女性連続殺人の記録と、捜査官や警察官、ジャーナリストや容疑者、逮捕され獄中にいる犯人(?)、そしてなぜか存在感抜群の下院議員アセスナと彼女が雇った探偵の物語。

サンタテレサで起こった女性連続殺人が、何と言えばいいか、つき放したような記録のような文体で滔々と記述されています。

読ませる文章ではあるのですが、それでも「犯罪の部」の半ばあたりは、読みつづけるのに苦労しました。ほんと苦しかった。殺されつづける女性たちの人生断片の描写と、事件をわざと迷宮入りさせようとしているようにも見える警察や捜査官のふるまいが、これでもかと繰り返されます。

そのおかげで(?)、自分もこの重い空気に覆われたサンタテレサからつづく世界に生きている.. そう感じる瞬間が何度かありました。

ボラーニョのもつ「怒り」をいちばん感じたのが、この部だったと思います。

ボラーニョは、人が人を殺しつづけるシーンをできるだけ直接描写せず、そして殺す側の人たちの心と、殺される側の人たちの心を極力直接描写せずに繰り返し描くことで、よりリアルにその「事実」を読者に届けようとしているのではないでしょうか。

ぼくたちが実際に生きている世界では、戦争や殺人事件が起こりつづけています。そしてぼくたちは、オンラインやテレビなどを介して伝えられる情報断片を見て、その「事実」を「知っている」つもりでいます。

人が人を殺すという「事実」と、この物語を読んでいる自分たちが無関係ではないこと、そして犯人を発見し逮捕するだけでは、犯人を裁判でさばくだけでは、その問題を解決できていないのではないか。ボラーニョはそう問いかけているのかな、と考えました。

そう考えると、戦争や連続殺人は極端で目立つ出来事ですが、それらも人とその社会が抱える大きな問題から生まれるひとつの結果だとも捉えられるかも知れません。

そうそう。『ラテンアメリカ文学入門』で寺尾隆吉さんは、この「犯罪の部」を「長編になると、細部を際限なく輻輳する」ボラーニョの「悪癖」の一例としています。この指摘が妥当だとすると、上にかいたことは、ぼくが深読みし過ぎた、ちょっと的を外した解釈かも知れません(笑)。

つぎに、この大きな物語で描かないことをとおして描いていることがあるとすれば、それは何なのか。ちょっと考えてみました。

まず浮かんだのが、1990年代にメキシコを訪れたアルチンボルディの行動です。彼はメキシコで何をしたのか、あるいはしようとしていたのでしょうか。

本書の最初「批評家たちの部」の主人公、5人のドイツ文学研究者のなかの唯一の女性、ノートンがトゥールーズのセミナーで出会った若いメキシコ人作家から、エル・セルド(スペイン語の豚)というメキシコ人が、メキシコシティでアルチンボルディに出会ったとの情報を聞きます(104ページ)。

小説家であり詩人でもあるエル・セルドは、夜更けにアルチンボルディから電話で、メキシコシティの空港そばのホテルへ呼び出されます。恐らく強盗に襲われた(でも金は盗られなかった)アルチンボルディは、彼の本をすべて出版したドイツの出版社の社長ブービス夫人経由で手に入れた、エル・セルドの電話番号に連絡してきたのです。

警察が帰ったあと、エル・セルドは朝五時までアルチンボルディと食事をしたり(アルチンボルディは食事のあと、さらにタコスとテキーラを注文)、荒れ地に咲くライラックの花みたいに姿を現していたアステカ時代の遺跡を訪れます。

そして、アルチンボルディはグレーのTシャツにジーンズ、スーツケースひとつという格好をして、飛行機でメキシコシティからエルモシージョ経由でサンタテレサに向かいます。

アルチンボルディの消息を調べるためサンタテレサを訪れたドイツ文学者3人(ノートン、ペルチエ、エスピノーザ)は、アルチンボルディが本名をつかってメキシコシティのホテルに宿泊していたことまでは明らかにします(113ページ)。

しかし、そこから先の行動は、ノートンたちにとっても不明のままです(123–124ページ)。

もうひとつ、3番目の「フェイトの部」の最後には、アフリカ系アメリカ人ジャーナリストのフェイトがサンタテレサ刑務所を訪れたとき、アルチンボルディのように背が高く、ドイツ語で木こり歌のような歌を歌う囚人に出会い、インタビューするシーンが出てきます(344–345ページ)。

歌い終えた金髪の囚人は、フェイトたちにこう言います。おはよう。好きなことを訊いてくれ。

しかしここで、「フェイトの部」は終わってしまいます。この男が誰なのか。そして彼はフェイトたちに何を話したのかは、語られないままだと思います。

「アルチンボルディの部」終盤で語られる、彼がメキシコへ向かうまでの物語りもヒントになりそうです。

70代後半の彼はおそらく、サンタテレサの女性連続殺人事件の犯人として収監された甥のクラウスを何とかするため、あるいはその背後にある事実を探るためにメキシコへ向かう前で、物語は終わります。そして、物語は最初の「評論家たちの部」へと繋がります。

上述のように「評論家たちの部」では、アルチンボルディが本名でメキシコシティのホテルに泊まり、たぶん強盗被害に会い、エル・セルドと朝までいっしょに過したあと、サンタテレサへ向かいます。

このメキシコシティのホテルでの強盗騒ぎも、もしかすると連続殺人事件(の一部?)に関係する犯人か警察も関係しているかも知れません。

さらに、「フェイトの部」の最後に出てくるドイツ語で歌う男の外見は、「犯罪の部」で記述されているクラウスや「アルチンボルディの部」で描かれるアルチンボルディの姿に似ています(462ページ)。

「犯罪の部」でサンタテレサ刑務所にいるクラウスは、記者会見でこう言います。私はこれまで調査を進めてきました。外からの情報を受け取ってきました。刑務所のなかにいてもあらゆることが分かります。友達の友達は友達で、いろいろ教えてくれます。

刑務所にいるクラウスのために調査を進めているのが、アルチンボルディである可能性が高いのではないかと、ぼくは予想しています。クラウスが友達と呼んでいるところが、少し気になりますが。

そして仮にそれがアルチンボルディだとして、サンタテレサでの調査をとおして、彼は何を知ったのでしょうか。それは、彼がドイツ兵として体験した戦争や、手記で読んだユダヤ系ロシア人の人生と関係するのか、それともちっとも関係しないのか。

うーん。以上が今までにたどり着いたぼくの考えです。まだまだよく分かりませんね。もう少し考えてみたいと思っています ( ͡° ͜ʖ ͡°)b

物語のクライマックスにあたるアルチンボルディ誕生のシーンを読みながら頭に浮かんだ絵を、今もよく思い出します。

ある作家とその小説に出会ったいくつもの国の人たちの人生が、何十年前の作家の人生や、その作家が偶然手にした別の国の人の人生を記録した手記とも関係している。

そして、そんな人生を送る人々の形づくる社会では、戦争や連続殺人という極端な形の出来事にも繋がる大きな要因が、駆動しつづけているのかも知れない。

ボラーニョの遺作である『2666』で、これまでに出会った文学作品のもつ価値を、改めて新しい絵として垣間見た気もちになりました。