on outline processing, writing, and human activities for nature
『2666』の「アマルフィターノの部」を読み終えました。いやホント良かったです。163-229ページ。
サンタテレサ大学の哲文学部長の息子、マルコ・アントニオ・ゲーラが出てきて(215ページ)からの終盤の展開に驚きました。
とくにアラウコの民(これまた意味不明)が確立した二種類の伝達手段のくだり(222ページ)。
"55"という註番号が当然のようにふられており、え、ここまでにもう54個も註があったのかとちょっと焦りながら、巻末の註ページを探してしまいました(笑)。
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この第二部の主人公は、チリ人教授アマルフィターノと彼の家の裏庭にある『幾何学的遺言』だと思いましたが、いかがでしょうか。
アマルフィターノは、17歳の娘ロサといっしょにスペインのバルセロナからメキシコ北西部のサンタテレサへ引っ越してきたようです。先のノートにも書いたように、アマルフィターノは第一部「批評家たちの部」から登場しています(117ページ)。
『幾何学的遺言』も第一部にちらと、でも印象的な形で登場します(137ページ)。著者はラファエル・ディエステで、出版はデル・カストロ社。
で、第二部でアマルフィターノは、買った覚えのないこの本を見つけた翌日の講義の途中、学生たちがノートをとっているあいだに、あるいは自分が話しをしているあいだに、単純な幾何学図形を描いたあと頂点や交点などに人名を書きます(192-195ページ)。
それらは有名な哲学者や思想家の名前もあれば、たぶん有名ではない(もしかすると架空の)哲学者などの名前もあるようです。その配置や順番がなぜこうなったのか、アマルフィターノも分からない。これが何を意味するのか、しないのか。
そしてもう一度、下に書いたペレス先生とのピクニックから帰った夜に、こんどは名前を三列に並べたリストをつくります(208ページ)。
この意味ありそうで意味不明な図やリストが、この「アマルフィターノの部」やもっと大きな階層でのひとつのランドマークになっているのかも知れません。
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「アマルフィターノの部」序盤の主役は、妻のロラのように見えます。
彼女はおそらくバルセロナで暮らしていた時代に、アマルフィターノと二歳の娘ロサを置いて家を出ます。彼女の敬愛する芸術家のいる精神病院を訪ねるというのが、彼女の口実です(166ページ)。
スペイン北東部、フランス国境近くでのロラとイマの生活やイマが去ったあとの日々が、序盤に滔々と語られています。ロラのつくり話しなのか、本当の話しなのか分からない形で。イマは女性でロラが言うには彼女の友だちです。
そしてこの第二部の最初から、アマルフィターノは自分がなぜメキシコのサンタテレサへやってきたのか、その理由を思い出そうとしますが、思い出せない。やがて彼は、自分の神経がおかしくなってきているのではないかという不安にかられるようになります。
アマルフィターノは、その不安を同じ大学のペレス先生に打ち明けます(200ページ)。それを聞いた彼女は、気晴らしにとアマルフィターノをピクニックへ誘う。
このピクニックが、中盤のヤマ場のように感じました。サンタテレサから砂漠を越えた先にある山を登ったピクニック場が目的地。アマルフィターノは娘のロサといっしょで、ペレス先生は息子のラファエルを連れています。ペレス先生の車で出かけた4人の日帰りの旅行です。
そのピクニック前夜、アマルフィターノは部屋で声を聞きます。その声は「間違いなく自分(アマルフィターノ)に向けられていた」。やぁ、オスカル・アマルフィターノ、恐がらなくていい、悪いことは起こらないから(203ページ)。
ピクニックからの帰り道で、アマルフィターノは助手席で眠ってしまい、そこでペレス先生とはちがうフランスの女性の声を聞きます。
「その声の主は..記号や数字、そして『ばらばらになった歴史』あるいは『解体され再構築される歴史』と呼ぶ、アマルフィターノにはよく分からないものについて語っていた..」(207ページ)
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この「アマルフィターノの部」とひとつ前の「批評家たちの部」がどんな関係にあるのか、そんなこと気にしなくていいのか、少し考えています。
時系列でどちらが先でどちらが後という流れではありません。そうではなく、第一部でノートンやエスピノーサたちがサンタテレサに滞在したときの出来事と交差している。いやいや、交差とはちょっとちがう..。
その構造が、第三部より先を読めば見えてくるのか、見えてこないのか、それらを越えた何かが示されるのか。
物語の本題になるのかどうか分からないけれど、サンタテレサで以前から起こり続けている犯罪のことも気になります。「批評家たちの部」でノートンは、この犯罪とエル・セルドというあだ名の作家が関係しているのでは、とエスピノーサ宛のメールに書いています(145ページ)。
果たしてこの問題は、この先に解かれることになるのか、さらに大切なことに繋がるのか、それとも放っておかれるのか。
少なくとも「批評家たちの部」を読んでいたときには予想していなかった、ナンじゃコリャという嬉しい驚きを感じています。