gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


Humanity と道具

いやいや、ほんとにこいつらは飛ぶのが好きだよ。こんなに嬉しそうに飛ぶヤツは、ほかにいないよ。やっぱり、そう思うんだよ。

 これはぼくにとって、一生ものの言葉のひとつ。ぼくが大学院生だった頃、ツバメの研究フィールドにしていた牛舎のおじいさんの言葉。

 

 しみじみ話すおじいさんの視線の先には、雌ツバメが1羽。牛舎前の広い庭の地面すれすれを高速で飛び、倉庫直前で宙返りするように旋回して、また低空飛行して、今度は牛舎の手前で急旋回して超低空飛行を繰り返す。と思っているうちに体を捻ってコースを変え、パシッという小さな音が聞こえる。これは、同じように高速で飛ぶアブをツバメが嘴でつかまえた音。

 アブが大きくて、彼女のくちばしでは扱いづらかったのか、真上に上昇しながらそのアブを一度放し、宙返りして急降下しながら、放物線運動するアブをもういちどパシッとくわえなおす。地面すぐそばまでダイブしてから一気に屋根の高さまで急上昇、その勢いがとまるあたりで何回か、ダンスするように左右に素早く swing したか思うと、すっと牛舎の窓の中へと消える。牛舎の屋内にある巣で、彼女を待ちわびている雛に餌をあげるのだろう。

 

 春になりツバメが日本へ戻ってきたら、一度でいい、飛んでいるツバメをゆっくり見てあげてほしい。それは、彼女らが生きている瞬感である。ツバメは、飛んでいる瞬感に、飛ぶ虫を追いかけている瞬感に、躍動する。人間に例えると、彼女たちは幸福感を体全体で表現している。そしてぼくは、このツバメたちのように生きたいと思ったりする。

 では、人間であるぼくたちにとっての飛ぶこととは、いったい何なのだろう。そう考えると思い出すシーンがある。地面すれすれに飛びながら、高速で飛ぶアブを捕まえるツバメのように輝く人間を、ぼくは何度も見たことがある。

 

 * * *

 

 あれは5年前の冬。職場そばのスターバックスで見かけた、たぶん大学生。細身の彼は、大変意気揚々と大きなカバンをさげ、ぼくの隣の丸テーブルにすわる。そして、これ以上ないくらいの軽やかさで、荷物の入れすぎで変形した、その大きなカバンのファスナーをきゅうと開く。

 そこから取り出したのは、いい感じで使い込まれた折りたたみキーボード。何かの目印なのか、いつくかのキーボードにはられた蛍光色の丸いシールもところどころ剥がれている。テーブルの上で、目にも留まらぬ速さでかしゃんと開いたあと、今度はだぼだぼジーンズの右ポケットから iPhone をするりと取り出し、折りたたみキーボード中央奥にある小さな装着具にとりつける。

 座ってからそこまでにかかった時間がわずか2.5秒であったことだけで、驚くのはまだはやい。そこから彼は、腕まくりするやいなや、だだだだとキーを叩き始める。

 その楽しそうな様子といったらなかった。だだだだ、だだだ、だだだだだ。まわりの空気が黄色くなるくらいに楽しそうなんだから、彼以上に幸せな人は、たぶん世界中に100人いないなず。

 彼はたぶん、いつでもどこでも、書くことが大好きなのだ。それを具体化しているのは、折りたたみキーボードと iPhone。彼の中では、いつでもどこでも書くことと、キーボードをだだだと叩きながら、iPhoneの小さな画面に字が埋まっていくことが、同じくらいに大好きなのだ。

 

 もうひとつは、10年前の秋。入り口を入った最初の空間に、ピカソの道化師の頭像が置いてあった美術館。その道化師の正面から左30度、およそ1mの距離に立って、コンテと大きなスケッチブックで、その道化師を描く若者がひとり。

 小柄なその人は、右手で抱え込むようにスケッチブックをもち、うらやましくなるうようなリズム感で、コンテの動きに合わせて、左肩や上半身、あるいは全身を小さく swing。

 その最小限の動きこそ、道化師を描く必須要素である。そう静かに主張するかのように swing。若きプロフェッショナルの、まぶしくて大きな未来。それを生み出すのは、道化師にコンテ、大きなスケッチブックとswing、swing。

 その若者はたぶん、こうして描くことが大好きだ。コンテと大きなスケッチブックを使いながら、そして swing しながら描くことが大好きなのだ。

 

 3つめは、つい最近に本で読んだシーン。イスラエルの歴史家であるユヴァル・ノア・ハラリの書いた『Sapiens』の最初に、人類誕生のきっかけが、物語りのように紹介されている。人類が最初につくりだした道具のひとつ、石器が生まれた頃の話し。

 体重20キロくらいの、小さなぼくらの祖先 (ここでは仮に、ルーシーと呼ぶことにしよう) は、アフリカの真ん中あたりにくらしている。ある日、彼女の生まれ育ったサバンナで、雌ライオン (の祖先) たちが1頭のキリン (の祖先) を倒す。キリンの肉を食べる大きな雌ライオンとその家族を、遠くの高台から眺めるルーシー。彼女が、今その食べものに近づくことは、もちろんできない。

 やがてライオンたちは食べ終わるが、まだルーシーの番ではない。ハイエナやジャッカルの群れが、その残滓を食べるからだ。もう少し待とう。

 そのジャッカルたちがいなくなったのを確かめて、やっとルーシーたちが、キリンの場所へ近づき始める。ライオンが倒したキリンの残滓の残滓は、たぶんほとんどが、あの大きな骨と皮だけ。でもルーシーは、骨や皮についたわずかな筋肉や脂肪のかけらを探したりしない。手頃な大きさの骨を、身を隠してくれる薮の影まで運び、左手にもっていた尖った石の破片で、骨を割り始める。

 力を入れ過ぎれば骨が割れる前に疲れてしまうし、怪我してしまう。力まずにでも素早く、骨の薄い場所を何度か叩く。その打音が少し変わったかと思うと、骨に裂け目ができ、そこには栄養価が高くておいしい?骨髄が見える。

 手にした石の破片は、ちょっと時間のできたきのうの午後、別の石を使って尖らせておいた。刃の反対側は、彼女の手の大きさに合わせてにぎりやすい形にしてある。賢い彼女は、骨を安定させる台になる石も用意してあったかもしれない。

 

 そして。大きくて硬いキリンの骨を石で叩くルーシーのまわりの空気は、スターバックスで折りたたみキーボードを叩く大学生の周囲のように、黄色くなっていたはず。あるいは、割れた骨から骨髄を取り出すルーシーのうしろ姿は、道化師を描く若者のように swing したかもしれない。

 もしかするとルーシーは、無骨だけどやさしいボーイフレンドに、石器つくり方を教えながら、「ね、いい感じでしょ」なんて微笑んだかもしれないし、子どもたちに向かって「骨を割る道具をつくるのにぴったりの石がどこにあるか、よく考えてみて」なんて、いい先生をやっていたかもしれない。

 

 * * *

 

 折りたたみキーボードと iPhone、コンテとスケッチブック、そして石でつくられたナイフ。そこに共通しているのは、使う人の幸福感。あるいは、幸福になるのだという、たくましい意志のしるし。そのしるしの鍵になるものは、おそらく熟練。

 だだだだ、だだだと折りたたみキーボードを殴るように書く技は、1日では完成しない。道化師の横顔を、ピカソの視点を再現するかのように描く swing は、広告の裏紙に、お父さんの顔に直接手足をはやして描いたときからの、練習の賜物かもしれない。

 ゴリラやチンパンジーたちの目を、見たことがあるだろうか。彼や彼女らのあの眼差しを見るたびに、人間が誕生する何百万年か前に、知性とよばれるものがこの地球上に生まれていたのだと、ぼくは考えてしまう。

 では、人間はどこで人間の道を歩き始めたのか。その最初に道具があり、それを偶然ではなく意志をもって熟練しながら使うことに、とんでもない幸福感をもつルーシーがいたのではないかというのが、ぼくの仮説である。

 

 たかが道具、されど道具。Humanity は道具とともにある。