gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


ゆっくり見る

書くこと、描くこと、それに歩くことと、ゆっくり見ること。この4つは、日々の生活での大切な楽しみ。とくにゆっくり見ることは、物ごころついたころからずっと好きなもののひとつだと思う。でも、見るスケールは年齢とともに変わってきた。スケールとはこの場合、見わたす範囲と見る細かさなどの精度、そしてゆっくりにかける時間のこと。

子どもの頃、ぼくは休みになると、祖父母のすむ瀬戸内の小さな島ですごすことが多かった。小学校の友だちとあえないのは残念だったけど、その何倍もの魅力が、その島にはあったからだ。

 たしか、小学5年になる春休み。ぼくと同じように祖父母のところに来ていたいとこ3人と一緒に、M おばちゃんに連れられて、島の裏山にのぼった。

 「あした、タコノツジに登ってみようかいね。」

 この島で生まれ育ち、結婚して愛媛でくらすようになった M おばちゃんは、ぼくらの讃岐弁とはちょっとちがう松山あたりのアクセントで、彼女が中学までよく訪れたという裏山の名所に、ぼくたちを招待してくれた。タコノツジとは、この島にある山のピークのひとつ。ピークなのに「辻」というのは不思議な気もする。それになんでタコなんだろう。

 その約束のあした、みんなで早起きしてたくさんのおにぎりやおやつをつくって準備万端、跳ねるように裏の畑をとおりぬけ、林にはいる。この小さな道は、ぼくたちも得意の道で、数え切れないくらい何度も、虫を探して歩きまわった道。海岸沿いに舗装した車道ができる前には、そこが幹線道だったと、ばあちゃんから聞いていた。幹線といっても、道幅は1mくらい。道端に埋もれた石垣や読めない字の彫られた道標が、ばあちゃんの正しさを静かに示していた。

 瀬戸内の島特有のクロマツ林の道は、ふかふかの松の葉で覆われていて、花コウ岩でできた白っぽい路頭が、あちこちに小さく顔を出している。暖かく晴れたその日、林の中はこの季節独特のわずかな硫黄のような匂いがしていたように覚えている。今思うと、それはヒサカキという低木の花の香りで、おそらく、花粉を運んでくれるアブやハエたちを呼ぶためのもの。

 松の葉に足をすべらせないように気をつけながらしばらく歩くと、峠が見えはじめる。まっすぐ峠をこえて東へくだる道をいくと、島いちばんの大きな港に向かう。もうひとつの道をすすむと、北にのびる尾根の西斜面をゆっくりくだり、祖父母のうちがある集落の北はずれにでる。ぼくたちは、道がその2つしかないことをよくしっていた。

 ところが M おばちゃんは、南へと尾根づたいに歩きはじめる。そうすると驚いたことに、たしかにそこにも道がある。ぼくもいとこたちもしらなかった秘密の道。しばらく歩くと、それがとぎれはじめる。道がなくなったかなと思っているうちに、踏み跡のしっかりした、平らで両側に境界まである立派な道になったりする。使われなくなった道が、おそらく何10年か経つとこうなることは、大学に入り、野外でサルを研究するようになってからしった。

 ぼくたちは、そのうち尾根からはずれ、急な西斜面をトラバースしはじめる。道は完全になくなり、藪をかき分けながら歩くようになったのだが、まあその楽しいこと、楽しいこと。その楽しさは、タコノツジへむけて急斜面を登りはじめたとき一気にレベルアップする。未知の世界へ突き進む探検隊の気分は最高潮。

 今、あなたの特技は?と聞かれたら、ぼくは胸をはって、動物の個体識別 (動物を1匹ずつ見わけること) と藪こぎ、と答える。藪こぎとはつまり、低木や丈の高い草で覆われた藪につっこんでいって、どんどん歩くこと。そんなことに技が必要あるのか?と聞かれたら、ぼくは胸をはって「ある」と答える (笑)。

 その薀蓄はさておき、藪こぎが2大特技のひとつになるほど好きになったきっかけのひとつも、このタコノツジハイキングだった。ウルシにかぶれやすいぼくは、こういった藪に多いウルシにさわらないよう気づかいながらだったけど、いとこの T くんや S くんと、なんだかわめきながら、口にヒサカキの葉っぱがはいってきたりしてもなんのその、とにかく斜面を両手と両足をつかってのぼりつづけた。そして、たぶん30分くらいすすんだあたりで、大きな花コウ岩の路頭にたどりつく。まわりに木が生えていないので、藪しかみえなかった世界が、そう、何億倍にも広がる。

「ここでひとやすみや。ここはヨツイワっていうんやけど、下からは大きな岩が四つあるように見えるんよ。」

 M おばちゃんは、背負った布のザックをおろして、丸のままの八朔を2つ、半分に切ってぼくたちにくれた。そして、自分はすわりやすそうなくぼみをみつけ、そこに腰をおろして、深呼吸しながら西のとおくに視線をあげる。それがかっこよかったから、ぼくたちもそれに倣う。

 するとまず目に入ったのは、3km 西にある隣の島。これは、夏に毎日泳いでいる浜辺からみる島なので、まちがいない。大人たちには内緒だけど、その島はブロントザウルス (アパトサウルス) にそっくりということにしていた。海で泳ぐ日は、その島の山に夕日が沈むころまでに、一番山側にある祖父母のうちへ戻ることにしている。一番山側といっても、海から子どもの足で走って (なぜ子どもの頃は、みんなよく走るのだろう..) 5分くらいだったけど。

 そのブロントザウルスの島から少し視線を落とすと、海。でも、海をゆっくり見るようになるのは、もう少し大きくなってからだったようで、この時の海については、キラキラ光っていたくらいしか覚えていない。

 この頃の海の一番の記憶は、船の甲板から間近にみた海の波だ。本土から小さな漁船のような「せいこう丸」に乗り、たしか50分弱くらいで、じいちゃんたちの島につく。島の反対側にある大きな港にはフェリーも通っているが、だんぜん、ぼくはこのせいこう丸が好きだった。島の人たちは、この船をせいこう丸とは呼ばず、赤銅色に日焼けした船長の名前にちなんで「シュンちゃん丸」と呼んでいた。ぼくは中学になるまで、どう書くかはしらないけど「シュンちゃん」という漢字を音読みすると「せいこう」になると勘ちがいしていたのだが、これは余談のさらに余談。

 波の大きな日、島へ向かうシュンちゃん丸の舳先にいると、船が波の頂上にでるたびに、海の山脈の向こう、はるか遠くにじいちゃんたちの島がみえる。白い砂浜、白い花崗岩の地面が透けて見えるやせた林。そして、その林のある斜面にはりつくようにたてられた黒い瓦屋根の集落。波の谷間をすぎて頂上までのぼるごとに、それらがだんだん近づいてくる様子は、ぼくの原風景のひとつである。

ヨツイワにすわったぼくがさらに視線をおとすと、眼下にその集落が見える。たしか30軒くらいだけど、1年をとおして人が住んでいるのは20軒ほど。その一番海ぎわに、白いコンクリートの防波堤があり、その先に砂浜。村一番の広場も、その防波堤のそばにある。むかし村上水軍がつくったという大きな倉が、その広場の脇にシンボルのようにたっていた。

 シュンちゃん丸にのってこの島につくと、砂浜におりてから防波堤の階段をのぼる。そして、防波堤を越えるとまず、この広場と倉が見える。広場にたつと波の音と潮の香りがうしろからやってくる。横には小さな水路があり、淡水の香りもする。海辺の川は淡水の香りがつよい気がするのは、ぼくだけだろうか。歩きはじめると、道にいたアカテガニが走りだし、狭い道の両脇にある石垣のすきまに逃げこむ。その様子が波の音や潮と淡水の香りと一緒になり、ぼくはじいちゃんたちの島にきた幸せを満喫する。

 その幸せの感覚が、ヨツイワにすわりながら、見える気がした。そして、このときおそらく初めて、広い範囲をゆっくり見ながら、ズームインとズームアウトを繰り返すというやり方を意識した。

ヨツイワを出発したぼくたちは、M おばちゃんを先頭にタコノツジまでのぼり、そこで塩飽諸島のリアス式海岸のような風景をたのしみながらおにぎりをたらふく食べたあと、島でとれた八朔をもういちど味わった。

 八朔のわずかな苦さとすっぱさを感じながら、なぜだかぼくは、一歩大人に近づいた気がした。そのあとぼくは大学に入るまで、ひとりで何度もヨツイワにきては、この風景をながめるようになる。

 こうして、ぼくのゆっくり見るに、新しいゆっくり見るが加わったのである。