on outline processing, writing, and human activities for nature
街角にある小さな映画館は、減り続けているのだとずっと思っていた。
ところが、最近行った横浜の下町 (?) にある映画館は、なんというか昭和を感じさせる小さな映画館で、でもたぶんしっかりと前に進んでいる映画館のようで、ちょっと嬉しくなった。
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『アイヒマンショー The Eichmann Show』という映画が観たくて、近所でその映画を上映している映画館がそこしかなくて、カミさんと2人で行くことになった。横浜から京急の各駅停車で5分くらい下った駅で降り、飲み屋やそれ以外の夜のお店が、カフェやマンションと混在している場所をとおりぬけて、たどり着く映画館。四国の山あいで育ったぼくにとって、おっさんになった今も少しドキドキするような場所。
余裕をみて上映開始1時間くらい前に行ったのだけれど、映画館の前にはもう数10人くらいの行列ができていた。つまりこれは、上映する部屋以外に数10人の行列を収められるスペースがないか、映画館が開く前から行列をつくるくらい映画の好きな人が多い場所であるか、どちらかのしるし。答えは、後者 (開場前) だったけど、5分後に開場したとき、前者も正しかったことが分かる。
シネマコンプレックスなどの大きな映画館にくらべ若いカップルの割合が断然小さくて、行列しながら英語のペーパーバックを読んでいる人が、普通にいたりする。車椅子の人が、慣れた感じで並んでいるのも、ちょっと良かった。上映用の会場は2つで、それぞれに、ジャックとベティという名前がついていた。もちろん大きくないし、スクリーンもこじんまりしている。でも、行列していた人たちは、(車椅子の人が席についたあと) 真っ先にお気に入りの場所をとって、嬉しそうだった。こんなに嬉しそうな人の多い映画館に来たのは久しぶりだなぁと思ったりした。
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アイヒマンショーは、名前からわかるように、反戦というか民族問題というか、ファシズムなどの問題に正面から取り組んだ作品。カミさんに教えてもらったくせにエラそうに言うと、できるだけ多くの人に観てもらいたい映画。過去の映像を今の映像に重ねつつ、アイヒマン裁判をニュースシリーズとして映像記録する仕事にとりくんだスタッフの実話を基礎にした作品。
舞台は1961年のイスラエルで、主役のひとり、ミルトン・フルックマンという米国人を演じていたのは、ばりばりのブリティッシュ・イングリッシュを話すマーティン・フリーマンだったりする。にも関わらず奇をてらわず、かといってむやみな感動をおしつけてこないところは、監督や脚本の腕だろうか。
ミルトンは、見ていて普通な男で、がっかりするところもあるんだけど、考えてみるとスゴイやつだなぁとあとでしみじみ思ったりしたのは、脚本だけじゃなく、きっとマーティンの演技だからこそ。
この主役たちのしたことの意味は、この映画のすべてを通して語られる。
余談になるけど、ハンナ・アーレント Hannah Arendt の『エルサレムのアイヒマン Eichmann in Jerusalem』が、読みたくなった。ユダヤ人の女性哲学者ハンナが、この裁判をどう見たのか、知りたくなった。タイトルすらうろ覚えだった本のことを、はっきり意識するようになった。
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作品が良かったことも大きいと思うけど、エンディングが終わって部屋が明るくなる前に立ち上がる人が、本当に少ない映画館だった。めったにパンフレットを買わないぼくが、めずらしく買ってしまったのは、あきらかにその映画と映画館の雰囲気の相乗効果のせい。
そのあと少し歩いて、昼ごはんを近くのタベルナ (イタリヤ料理屋となぜか呼びたくない感じ) で食べた。映画館の半券もっていればエスプレッソやジュースが無料になると、映画館のちらしに書いてあったのが主な動機だったけど、これまた期待以上のお店だった。少しクセのあるチーズと、オリーブオイルの香りが部屋いっぱいに広がっていて、10人入るといっぱいになるようなお店 (ぼくはたぶん、オリーブオイルとチーズの香りに弱い)。映画のことを思い出しながら、チーズのたっぷりかかったペンネを食べるのもなかなかだった。
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小さな映画館で良い映画を観て、その映画館を育てた街の地面を歩きながら同じ街にあるお店で食べる。そこでは、同じパンフレットを買った人が、それをそばに置いて満足げに食べていたりする。新しい楽しみ方を見つけたというか、思い出したような1日。