gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


じゅっしょううお

たしか小学5年生の終わりか6年生はじめの春だったと思う。理科の授業で、オタマジャクシを観察することになり、担任のM先生が授業の最後に「急がないけど、できれば今週中にカエルの卵を探してもってきて欲しい」と話した。

四国の山あいの小学校だったから、幸せなことにそういった生きものは、その辺で普通に見つけることができた。

M先生は、ぼくが自分の学校で出会った教員の中では、いちばん影響力のある、かっこいい先生だった。田舎にある小学校の、総勢19人の小さなクラスには、塾へいく人はひとりもいなくて、うちへ帰って宿題以外に勉強する人もほとんどいなかったはずだ。ところがぼくたちが5年生になり、転任したばかりのM先生が担任になったときから、それが大きく変わった。たぶん8割くらいの同級生たちが、うちで宿題以外の自分の勉強をするようになった。率直で豪快、自分の考えをしっかりもち、それを自分の言葉として話してくれる、初めての先生だった。みんなすぐにM先生のことを好きになった。

そのM先生からのお願いだから、張り切ったんだと思う。すかさずクラスの中ではジャイアン的な、ただし頭がよくて男らしい「いいジャイアン」的な存在だったNくんが、「オレ、卵のあるところ知ってる」と言い出したので、男子みんなが (といってもたった6人) 、ぼろぼろでちょっとぞうきん臭いバケツを片手に、カエルの卵採りへくりだした。

小学校から歩いて5分くらいのところに幽霊が出るともっぱらのうわさの大きなため池があり (ぼくらの法則として、ほとんどのため池には幽霊がいることになっていた)、その池の土手下にある、田んぼへの水路の入口の水たまりにカエルの卵らしい塊があった。教科書にのっていたカエル (たぶんヒキガエル) の卵塊と形はちがうけれど、当時の教科書には、四国でくらすぼくらに合わないことが書いてあるのはよくあったから、気にしないことにした。そして、かなり意気揚々と、男子6人胸をはって、卵の入ったバケツをもって帰り、教室のうしろにあるテーブル上の水槽に卵塊を入れて、観察が始まった。

たしか週2回、たぶん理科の授業の最初に、それまでのスケッチを先生に見せにいったと思う。

黒くて丸い塊が、日々形を変えていく様子は、今思い出してもちょっとワクワクする。ただ、その変化は、教科書の絵や写真とは少しちがっていた。と思っているうちにも成長は進み、オタマジャクシはやがて彼らを保護している透明のゲルから外に出る。

その頃には、オタマジャクシが、教科書にあるオタマジャクシとは「少し」ではすまされないほどちがうものに育っていた。顎のつけねから両側に出た木の枝のようなエラが大きくなり、体が丸くない。頭が大きいけど平たい三角形で、体はそのうしろに細長くのびている。つまり、ちっともオタマジャクシじゃない。

そして、ぼくたちのスケッチは大きく2つのグループに分かれた。あくまでも目の前にある形を忠実に描くグループと、あくまでも教科書にある形を真実として描くグループ。後者には器用な人もいて、巧妙に、目の前のオタマジャクシと教科書のオタマジャクシの両方の特徴を備えた形にスケッチしていた。

とても残念なことに、ぼくがどちらだったのかを覚えていない。いい加減ななまけものだったので、下手をするとスケッチしてなかった可能性もある。

そして、観察が始まった翌週か翌々週。オタマジャクシに手が生えた。教科書によると足が先に生えることになっているのに、手が生えた。これには、教科書オタマジャクシ派のみんなもどうしようもなく、手の生えたオタマジャクシを描いて、M先生のところへもっていった。

そのときのことはよく覚えている。最初から2−3人くらいがスケッチを見せたところで、先生が立ち上がって怒り出してしまった。お前ら何を見てるんだ。オタマジャクシの手が足より先に生えるはずがない。そんなだから、都会の小学生にばかにされるんだと。そして、彼自身がうしろの水槽のオタマジャクシを確かめることなく、お前らちゃんと観察してやり直してこい、と声を荒げて、授業に入ってしまった。

そこで、どのクラスにもひとりはいるような、生きもの好きな (生きものおたく?)、ひ弱そうでちょっとなまいきなところもあったかもしれない、ぼくの登場。

生きもの好きとはいえ、カエルには興味をもったことがなかったので、よく見たことがない。それで、授業が終わるか終わらないかのタイミングで教室を飛び出し、図書室に走っていって (途中、校長先生に走るなと注意された)、あたりをつけていた図鑑をひらいた。そして、ぼくらがぞうきん臭いバケツでもちかえったのは、カエルではなくサンショウウオの卵塊だったという、もっともらしい答えの案をみつける。

卵塊の形も、頭が三角形で木の枝のようなエラが出たままであることも、そして手が先に生える絵か写真もあった。謎がとけてうれしくてうれしくて、階段2段飛ばしで走って帰り (校長先生は、もういなかった)、 水槽をのぞきながら、みんなに一生懸命説明した。

同級生たちに話したあと、大好きなM先生にもそれを説明しにいったのだけれど、M先生はそれを受け入れてくれなかった。細かいことは覚えていないのだけれど、とにかく、自分がまちがっていたという、ぼくが何となく期待していた言葉がなかった。

たぶんそのときのM先生は、何かにとても忙しかったか、家庭の事情で気持ちが高ぶっていたんだと思う。あるいは、ほんとにこいつらこのままでいいのかと、ぼくらを心配するような出来事がつづいていたのかもしれない。ほとんどの人が教室にいたのだけれど、そのやりとりを聞いていたのか、しばらく教室が静かになった。

そのあとも観察はつづき、やがてオタマジャクシたちは、立派なサンショウウオになった。今思うと、カスミサンショウウオという種なのだけれど、M先生はなぜか、ぼくたちのスケッチがまちがっていたという彼の意見については、ずっと何も触れなかった。

そしてなんとなく、M先生とぼくたちのあいだにもやもやとした、小さな距離ができた気がした。

その数週間後、サンショウウオを池のそばにある小川か森へ返しにいこうと話し合って決めたあとだったと思う。ぼくは、水槽のすぐうしろにある、連絡用に使われていた大きな黒板 (日直の名前や、週の課題、宿題などが書いてあった) を全部消して、意を決してでっかく、ひらがなで、こう縦書きした。

いっしょううお、にしょううお、(改行) さんしょううお。(1行アケル) よんしょうお、ごしょううお、(改行、中略) じゅっしょううお。

ねらいどおり、黒板の右から3分の2の位置に「じゅっしょううお」の文字がきたことに、よしと思ったのを覚えている。それで終わり。

なぜ、そんなことを書いたのかは覚えていない。書きたい、いや、書かなくてはいけないと思って書き、書き終えたときに大きな満足感があった。書いているうちに、たった19人だったから、クラスのほとんどが集まってきて、最初は大笑いして、そのあとしずかに「じゅっしょううお」まで見つづけていた人も多かったけど、さっさとあそびにいった人もいたと思う。

書きながらぼくは、もちろん怒られることを、場合によっては殴られることを覚悟していた。体罰は頻繁にはなかったけど、親もそれを認めていた時代だったし、厳しい先生が何人かいた。今思うと大げさすぎる覚悟だけれど、連絡用黒板を全部消して、意味不明のらくがきをするには大きな勇気が必要だったのかもしれない。

そのあと、職員室からもどってきたM先生は、なんとも言えない顔をしてその黒板の文字を読んでいた。それを、とても長く感じたことも覚えている。そして、黒板の反対側に立っているぼくを見て、もっと困った顔をしたあと教壇へ向かい、国語の授業を始めた。

この「じゅっしょううお」のメッセージは、たしか1か月くらいそのまま残されていた。いつもならすぐにらくがきを消す学級委員のTさんも、この「じゅっしょううお」は黙認してくれた。M先生が、もう消してもいいかとぼくにたずねるまで。

このときぼくは、意味不明の文章が、明確な意思を示す場合もあることに気づいた。そして、おたがいの気持ちを伝えることの大切さも。M先生を含むぼくたちは、サンショウウオのおかげで多くのことを経験したのだと、思っている。

そう、おたがいに傷つきながら。