gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


ペトロフの物語り

『職業としての小説家』に、頭の中の抽斗の話しがでてくる。出会った人を、そのときの具体的な細部でラベルづけして抽斗にしまっておく。そして、文章を書くとき、その抽斗から取りだして、その人に動き回ってもらうという、村上さんが小説をつくるときに使っている秘訣 (?) のお話し。[1]

 今まで抽斗とは呼んでいなかったけれど、そしてもちろん村上さんには遠くおよばないけれど、ぼくにも出会った人や生き物や風景をしまっておく場所があると思っていた。だから、その抽斗の人に語ってもらうとどんなことか起こるか、ちょっと魅かれるところがある。


 彼はBBCのカメラマンで、出会ったのはロシアのプリモーリエ地方にある小さな村、ベルフニェ・ペレバル。世界に100頭もいないとされるアムールヒョウを撮るために、もう1年以上、この村に滞在していた。細身で小柄、大きな額に黒縁メガネをかけた顔は、サンダーバードのブレインズのような、あるいは007のQのような線の細さをイメージさせた。

 まっすぐ遠くを見るような眼で、こちらを見たり、村のとなりを流れるビキン川の向こうを見たりしながら、プリモーリエの森でアムールヒョウを追いかける日々を語ってくれた。「そうそう、このあいだは、こんなことがあってね..」という感じで。

 *

 「そうそう、このあいだ、ぼくはいつものように、カメラをしかけてある場所に向かって歩いてた。知ってると思うけど、ヒョウは昼に姿をめったに見せない。

 このあたりのやつは、昼のあいだ、あそこにある大きな赤い崖で眠っていると思うんだ。だって、昼はトラが歩きまわってる。トラはあのメディベーチ (ヒグマ) を普通に食べるっていう話しもあるくらいだからね。トラに狙われたら、ヒョウなんかイチコロだ。トラがひょいって前脚を振ったら、ヒョウの頭は2秒後に胴体とは別のどこかに着地するよ。どすんってね。

 話しがそれたね。トラの大きさはともかく、あの日ぼくは、いつものけもの道をゆっくり、歩いてたんだ。冬だったけど、なぜかシジュウカラがよくさえずってた。そしたら、左後ろのほうで、枝が折れる音がしたんだ。こんな感じでね。」

 ペトロフは、指をパチンとならす。

 「もちろんヒョウだよ。見なくたって分かるさ。鳥肌がたったよ。65% の確率で、やられると思った。だって、この小さなパチンが、すぐ後ろで聞こえたからね。で、どうしたって? しょうがないから、ぼくはそのまま歩くことにしたんだ。だって止まっちゃいけないに決まってるし、走るのはもっとよくない。

 歩きながら例のクーデターを取材したときを思い出した。芝生広場の向こうにある議事堂前の階段にいた男の機関銃がこっちを向いてて、ぱぱぱって光ったんだ。ちょうどあれくらいの距離だった。」

 ペトロフは、ビキン川対岸の土手で夕方の散歩を楽しんでいる老夫婦を指さす。100m よりははるかに遠いように見えた。

 「で、0.5秒たってから、ぼくの足元の地面が飛び散った。音速を超えたものだけが出す、空気を切り裂く音がして、光も見えたよ。あのときは、77% の確率でダメと思った。でもまあよくあることだけど、買ったばかりの革靴に泥ぼこりがついたのと、顔や体に何かの破片がぶつかっただけだった。

 あのときのマシンガンの危険率が 77% で今のヒョウが 65%。つまり今の方が 12% も安全だと、意味もない計算したところで... 」

 ペトルフは唾を飲みこむ。

 「ヒョウがドンと頭をぶつけてきた。」

 彼は立ち上がったかと思うと、腰を前へつきだした形で弓反りになり、つんのめって見せてくれた。

 「すごい力だったね。ここで倒れたら食べられる、なんてことを考えながら、2−3歩よろけながらバランスをとって、そのあと何もなかったのように歩きつづけようとした。

 そしたら、やつはゆっくりと、ぼくを追い越して行ったんだ。いやいや、唸り声なんて、聞く余裕は全然なかったよ。だから、あいつが何を言ってたかなんて、わかるはずがない。でも、あの尻尾だけは忘れられないよ。とても長いんだ。そしてその先が、きれいなサインカーブの運動をしていた。三角関数の式が浮かんだね。そしたらなんだか、自分もサインカーブほどじゃないけど、自然の中でそれなりに美しく運動している気持ちになった。

 で、そのサインカーブを残して、そいつはふっと、右手の崖の下へおりていって、何にも見えなくなった。音もしない。」

 ペトロフは、しばらく口をつぐむ。ジョウビタキがすぐ後ろで、カカカカ.. と小さく鳴く。彼は、間をとるもの上手だった。

 「もちろん、崖の下をのぞくなんて勇気はなかったけど、そのせいもあって、なんだか、あいつが存在しなかったような気持ちになった。

 立ち止まったりはできなかったなぁ。体の震えは残ってたからね。だから、平気なフリしてカメラのところまで歩いていった。そして、前の夜の絵が撮れているか、いつものように確認しながら『うむ。これでよし』なんてつぶやいたりした。それから、カメラから離れた場所でいつもみたいにお湯を沸かしてチャイを飲んだ。おいしかったね。これは 97% の確率で請け合う。

 でも、その日は仕事できなかった。これでよしって声をかけたカメラも持って、村までもどったよ。走るなんてできない。走ったらやつがうしろからドンってやりそうな気がして仕方なかった。だから、ゆっくり歩いた。

 あの枝の折れる音から、尻尾が消えるまで、1秒だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。そのあとチャイを飲むまで、30分だったかもしれないし、半日かかったかもしれない。

 とにかく、ぼくは帰って、あのうちのベッドで眠ったんだ。3日間くらいね。で、やっともとの生活にもどった。」


 ここに書いたことには、フィクションがいっぱい散らばっている。そして、長いこと抽斗にしまっておいたぼくのペトロフは、本人よりも早口で明るい人になっていた。たとえば、ペトロフと出会ってから5年後、モンゴル国境付近にあるロシアの自然保護区で出会った、ユージン・クズネッチョフの軽口が3分の1くらい混ざっている。

 のべつまわりを笑わせていたユージンとペトロフは似ても似つかないはずなのに、不思議なものである。


  1. 村上春樹. 2015. さて、何を書けばいいのか? 職業としての小説家. スイッチ・パブリッシング.