gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


3つのオリジナリティ

 研究で給料をもらっている人は、その仕事の成果 (生産物) として、オリジナリティを求められる。これが、ここに登場するひとつめのオリジナリティ。

 以前だれかが解き明かした問いに対して、だれかが使ったのと同じ方法で同じ答えを見つけたとしても、その分野 (同じ大きな問いにとりくむグループ) にとって大きな前進にはならない。だから、職業研究者や研究者としての訓練を受けている人は、まずはしばらく論文など公開された情報の宇宙をさまよい、自分の分野でこれまでに提案された問いを調べ、どんな方法でどういった答えが見つかってきたのかを整理する。そして、それら先人たちの肩にのって先に進もうとする。これを、研究者たちは「レビュー (する) review」という。

 「レビューが足りなかったね」なんてコメントされたりすることは、職業研究者などにとって恐ろしい、トドメをさされるような一言である。研究に携わり始めた人の大きな悩みは、読む時間の制約。外国語の論文を理解し、自分のものにするには時間がかかる。読んでいるだけで、かんたんに日が暮れて、日はまた昇る。好きな生きものの本や小説を読む時間をあきらめ、電車の中はもちろん、食べながら論文を読んだりする人もいる。

 おっさんの説教みたいだけど、職業研究者であるということは、自分たちのグループ (たとえば研究者、哲学者や自然科学者、分子生物学者や生態学者) に投資してくれたグループ外メンバー (たとえば、税金や授業料を払っている人たち) に、その投資に見合うお返しをする責任や義務を担っている。ひとつめのオリジナリティ追求は、その分野の進歩をとおした社会貢献という視点から、正しい考え方である。

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 でもこの考え方を、たとえばアマチュアで研究にとりくんでいる人たちに当てはめてもよいかと訊かれたら、ぼくは否と答えたい。あるいは研究という枠をとりはらって、みんなが生活の中で出会う出来事から問いをみつけたり、その解決にとりくんだりする活動に当てはめてよいかと訊かれたら、ぼくは否と答えたい。この広い意味での、問いの探求に必要なオリジナリティが、2つめのオリジナリティ。

 オリジナリティのある問いを自分で考え、その問いに答える方法を模索し、答えを見つけながら自分の問いを育てることは、その人の生活を実りあるものにするための小さな技術だと、ぼくは考えている。しかし、このときのオリジナリティを評価する基準は、あくまでも「ぼく」でよい。ぼくにとってのオリジナリティがあればいい。

 だれかの本を読んで、その本や文章にかいてあった問いをそのまま使うとき、それはぼくにとってオリジナリティある問いではない。あたり前だけど。しかし、その本をとおして出会った問いやアプローチ、答えをもとに「では次に自分が何をしようか」と考え始めた問いは、ぼくにとってオリジナリティある問いである。あたり前だけど。

 あとで調べてみたら、その問いや方法や答えが、だれかの文章に書かれていたという場合も、この2つめのオリジナリティは下がらない。がっかりする必要もないし、それが当たり前というものだ。地球にはこんなに人がいっぱいいるんだし、人は考える葦という人もいるくらいだし、文字の記録も何千年分溜まっているワケだし。

 自分と同じ問いに気づき、自分とちょっとちがう道程をたどり、同じ答えにたどりついた人との出会いに乾杯し、たとえば100年前のメイン州で同じことを考えていたおっさんに敬意を払いつつ、その先へ進むのだ。

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 そして。これまでに出会った中で、天才とはこういう人のことだと実感した人が、3人いる。そのひとり、若くしてこの世を去った友人Mは、元気な頃、ぼくより何倍も忙しいはずだろうに、NGOで仕事に追われていたぼくを、涼しい顔をしながら何度も訪ねてきた。そして、自分がみつけた新しい話しを、飄々と語ってくれた。そんな話しの中に、忘れられないものがいくつかある。

 「自分で見つけた問いを自分のやり方で解いたのなら、それでかまわない。ほかのだれかが先に答えを見つけて論文にしていたとしても、それがどうしたと言うんだ。論文を書く手間がはぶけるじゃないか。そしたら、その次の問いに進むことができる..」

 この言葉を、職業研究者として厳しい態度を貫いているように見えた彼から聞いたぼくは、とても驚いた。この人は、自分より高い階層からオリジナリティを見ている。彼からもらったこの問いを、ぼくは今も考えている。これは、古き良きナチュラリストの時代の回顧ではない。これは、2つのオリジナリティの先にあるオリジナリティである。

 ニュートンの巨人に振り回されずこの姿勢を貫いた先に、3つめオリジナリティがあると、ぼくは考えている。それは楽しくて色あせない、そして些細だけれどかけがえのない、オリジナリティである。