on outline processing, writing, and human activities for nature
高校生の頃だったと思います。科学に携わろうと心に決めていたぼくは、こう考えました。
科学では、先人たちが見つけた「答え」を、自分の言葉にできるほど理解することも、重要な武器のひとつになる。だから、自分で考えたり、野外調査やデータ解析したりする自分の活動以外に、先人の書いた論文や専門書のメッセージを、自分の言葉にする作業にも時間をかけること大切だ。
もちろん、すぐに論文をむさぼり読む気はありませんでしたし、しようと思ってもできませんでした。ただ、その作業にかかる時間が半端ではないことだけは、漠然と予感していました。そして、ぼくが大学生になったとき、それは確信に変わりました。
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大学の入学式の翌日 (たしか入学式には出ませんでした)、受けとったばかりの学生証を手に、ひとりどきどきしながら、中央図書館と呼ばれる大学の図書館へ行きました。学術雑誌のありかを自分の目で見ておきたかったこともありましたし、雑誌の中から自分の読みたい論文を探しだす方法を教わりたいとも思っていました。
ゲートのバーコードリーダーのようなものに学生証をかざすと、軽い金属音がして、腰の高さにあるバーが開いて、中に入ることができました。なんだか仰々しいなぁと思いながら、正面を見ると、右奥に大きな受付カウンターがありました。
そのカウンターテーブルの向こうでは、図書館司書のお兄さんが、山のように平積みされた雑誌の登録に忙しそうでした。軽く深呼吸しながら勇気を出して、論文の見つけ方を知りたいと声をかけると、そのお兄さんの表情が、うれしそうに、まるでサクランボいっぱいのオオシマザクラをみつけたニホンザルのように、輝いたのを覚えています。そして、カウンターを出て、20メートルくらい離れた検索用コンピュータのコーナーにぼくを連れて行きました 。なぜかそのコンピュータには、スポットライトのように照明があたっていました。
生態学の論文を探したいのだけど、雑誌の名前は知らない。それでも大丈夫だろうかと、恥ずかしそうに話したと思います。するとお兄さんは、こちらを見てこう言いました。いえいえ。雑誌の名前なんて必要ありません。キーワードさえあれば、欲しい論文を見つけられます。そして素早く「bamboo」とタイプし、検索結果を見せてくれました。スマートフォンも Google も、Google Scholar もない頃でした。学術雑誌の多数が外国語で書かれたものである事実を、頭ではなく体で理解したのもこのときでした (それにしても、お兄さんはなぜ bamboo とタイプしたのでしょう)。
そのあと、ぼくがどんな最初のキーワードを入力したのか、ほとんど覚えていません。ecology、social、monkey、ape、africa を全部 AND でつないで入力したような気もします。monkeys と apes だったかも知れません。タッチタイピングなどできなかったですし、スペリングもあやういものでしたから、時間がかかったはずです。キーワードをタイプし終わってリターンキーを押すと、ゆっくりと流れるように、論文タイトルのリストが画面に表示されたことは、よく覚えています。
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そうして、データベースの使い方はなんとなく分かった気がしたので、その明るいお兄さんに、ていねいすぎるほどお礼を言ったあと、5階へあがりました。たしか自然科学関係の学術雑誌が、そのフロアに集まっていると聞いたからです。
エレベータを使わずに階段を登り、息切れしながら5階について、フロアを見渡した瞬間はよく覚えています。フロアいっぱいに並んだ書庫の8割くらいを学術雑誌のバックナンバー冊子が占めていました。背丈よりもずっと高い書棚に、分厚いバックナンバーの冊子がアルファベット順にぎっしり並んでいました。ぎっしりとです。
何も考えず、まず A で始まる雑誌の棚から雑誌のタイトルを眺めながら歩き始めました。書棚のあいだは、人が2人すれ違える程度の幅でした。蛍光灯の照明はあるのですが、たしか移動式だったせいか、棚の陰になって暗い場所も多かったと思います。A の棚は何列かありました。A だけでこんなにあるのかと思いながら B になり、それも同じくらいつづいて C の雑誌が見え始めたところで、ぼくはたまらず、書棚あいだの通路から抜け出しました。そして、窓際に置いた大きなテーブルそばの、座り心地よさそうな椅子に腰をおろしました。
ため息のひとつか2つ、ついたかも知れません。生まれて初めて目にした雑誌群の、巨大な質量に圧倒されたのです。中央図書館は、当時の図書館にしては窓の大きな明るいデザインで、北に広がるレンガ敷きの広場を挟んで、大学の建物がいくつか見えました。そして、その向こうには筑波山、さらに遠くには日光の白い雪で覆われた峰が見えました。少しだけ開けた窓からは、春先の冷たい風がそよと流れてきました。
この日感じた、雑誌群の巨大質量こそ、アイザック・ニュートンが「巨人」と呼んだものの実態だったと、ぼくは思っています。学術雑誌の電子化が進んでいなかった当時、ニュートンの「巨人」には、質量があったのです。そして、こう思いました。この「巨人」とつきあうためには、武器が必要だ。
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このときぼくが「武器」と考えたものは、いわゆる「知的生産の技術」だったと思います。論文の読み方や、知識の蓄え方、それを基にした新しいアイディアの手に入れ方などの、小さな技術です。加えて、外国語で読み書きそろばんができるようになることも、含まれていたと思います。
そこまで考えると、なぜかすっきりした気持ちになりました。何とかなるなと、確信したようにも記憶しています。今も不思議に思うのですが、何の根拠もなく (だって始めたばかりのことについて、自分の未来を予想できる情報があるはずありません)、でもこういった確信に似た感覚をもつことは、その後も何度かありました。いずれにしても、ぼくはこの時から、自分が科学とつきあうためにどんな武器を選び、それをどう使うのか、真剣に考えるようになりました。
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そして、その図書館での衝撃のあと、まず最初にやったことは、完全な文章で自分の「問い」と「答え」の案を書きながら考える、という作業でした。今思い返すとそれは、フリーライティングそのものです。
部屋にもどったぼくは、とにかく書くものが必要と思い、緑のハードカバーの測量用レベルブック2冊と2Bのえんぴつをザックに入れました。そして、見つけたばかりの美味しいトンカツ屋へ行き、自分のために大奮発してロースカツを注文しました。衣がやわらかくてほどよい歯ごたえもあり、肉は分厚いけどやわらかいロースでした。山盛りの千切りキャベツもトンカツソースも、本当に美味しかった。ご飯はもちろんおかわりしました。2回おかわりした可能性もあります。
食べ終わると、レベルブックを1冊開いて、甘いソースの匂いでいっぱいのカウンターで、ひたすら書きました。隣では仕事帰りのサラリーマンが、ビール飲みながら賑やかに語らっていましたが、あまり気になりませんでした。
まずは、自分の研究で取り組む「問い」をもう少し厳密なものにしよう。そして、今の自分の知識だけで、仮の「答え」を組み立ててみよう。あの山のような雑誌を読むのは、それからでいい。自分と同じ問いの論文があるかどうか、ないとしたら、他の論文の問いと自分の問いのちがいを考えてみよう。自分の問いになにか、足りない点や曖昧な点がないか考えてみよう。
もっとごちゃごちゃしてたはずですが、整理するとそんなことを考えながら、答えの案までを書きました。1時間くらいかかったでしょうか。その内容は、今もよく覚えているつもりです。言葉の断片を並べるのではなく、完全な文章として書きました。繰り返しますが、今思い返すと、これはフリーライティングそのものでした。
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ニュートンの「巨人」の大きさと強さに圧倒されて地面に倒れたとき、ぼくは、まずフリーライティングという武器を使うことに決めたのです。今の自分には、これしかないと思いながら、それを選んだのです。それが「技術」と呼んで良いほどのものとは、ずっと思っていませんでした。でも、無意識に使ったこのやり方こそ、ぼくにとって一番の方法だったように思います。
その選択は、今もまちがっていなかったと、確信しています。