on outline processing, writing, and human activities for nature
おととしの年末から、シダ植物の見分け方を覚えはじめた。シダ植物というと仰々しいけど、スギナやワラビの仲間で、その辺に普通に生えている身近な種も多い。サクラやタンポポのようには花を咲かせない、裸子 (らし) 植物と呼ばれる生きもの。
手頃なシダのハンドブックを見つけたのがきっかけで、その図鑑片手に、散歩がてら歩きながらみつけたシダの名前を覚えていくことにした。
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生きものが好きなことで得したなぁと思うことのひとつに、今回のシダのように、それまで興味の外に置いていた生きものグループの見分け方を覚え始めたときの感覚がある。
見えている世界の解像度が細かくなり、しかもその空間が広がるような感覚、と言えばいいだろうか。
これまでは、森を歩くとき、林床に広がる緑色の小さな葉がもじゃもじゃとついた背の低い植物があれば、ぜんぶひとまとめにしてシダのもじゃもじゃってことにしていた。
それがたとえば、裏手にある料理屋の石垣に生えているのはイノモトソウとヤブソテツ、でもその右どなりのスギ林にはコモチシダが多い、というように風景が変わってくる。
行く先々で、そこにあるシダの名前を覚えることを繰り返していると、もう少し大きな風景も見えてくる。鎌倉にはオニヤブソテツがたくさん生えているけれど、4キロ東へ行った横浜の森だとヤブソテツが多いとか、そこから7キロ南の二子山の森には鎌倉や横浜にくらべて何倍もの種類のシダが生えているとか。
そして、ここが生きものの世界のおもしろいところなのだけれど、そこにその生きものが暮らしていることには、その生きものだからこその理由のある場合が多い。人間の都合とは関係なく、彼らがそこで生まれ育って、あるいはどこかから旅立ってそこに住み着いて、それが何年も何百年も、いや何万年も繰り返されてできた結果である。
そういった生きものたちの生活と歴史の一部が垣間見れた瞬間、自分の世界が一気に広がったように感じる。生きものの見分け方を覚えるという行為は、そのための大切なステップのひとつ。
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生きものの見分け方を身につけるコツは、あわてずに、できる範囲で繰り返すこと。短い時間にたくさん覚える方法もあるだろうけれど、実際に自分が出会った種類をゆっくりながめながら慣れ親しんで行く方が、あとあと自分のものとして役立つことが多い。
たとえば、いつも通りすぎる場所に目新しいシダが生えていたら、1日1回、5分でいいから立ちどまって、そのシダをよくながめてみるというくらいの心構えが、ちょうどいいかなと思っている。
ポケットに入るような、小さくて軽い、しかも良質のハンドブックを、ぼろぼろになるまで書き込みながら使うと、そのプロセス自体が結構楽しい動機にもなる。自分が身につけてきた経験が、書き込んだ文字の量とぼろぼろさという形になって見える気がする。
見分け方を身につける作業は、言い換えると、生きものの名前を覚える作業とも言える。そしてそれは、広い意味で、名前をつける作業と呼んでいいとぼくは思っている。
森を歩きながら、ひとまとめに「緑のもじゃもじゃ」としていた生きものをひとつずつ取り出して、あなたはノキシノブさんで、君はイノデくんと、それぞれの名前を呼んでいくような感じ。
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そして、生きもの以外のものやできごとでも、見分け方を身につけると風景がちがって見えることがある。
たとえば、ぼくたちが日々の生活で出会うできごとの中でも、わりと普通な「文章を読む」というできごとについて、5分だけ立ちどまって考えてみる。
最初はどんな「文章を読む」も、ひとからげのもじゃもじゃ。このもじゃと、あのもじゃは、ほんとに同じもじゃなのかちがうのか。ちがうとしたら、どんな風にちがうのか、自分で名前をつけるつもりでながめるのだ。
シダの名前を覚えるのと同じように、いきなり世界中のありとあらゆる「文章を読む」を相手にしようとするのではなく、自分の生活の中で出会う身近な「読む」に目を向ける。
ぼくの場合は研究を仕事にしているので、学術論文を読んだり、専門書を読んだりする時間が読む時間の8割以上を占めている。そこで、この論文や専門書を読むことを、ゆっくり観察する。
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論文のようなシチメンドクサイ文章 (ごめんなさい) 、とくに、自分にとって目新しい分野の論文を読む場合、単純に文章に目をとおすだけでは、そこにある情報が頭に入らない場合も多い。
で、えらそうに言うと、ちょっとだけ読む工夫をしている。その工夫をエイヤとまとめると、まずは全体の大きなアウトラインをつかみ、自分がまだ分かってないなと思うところ (たとえば他人にうまく一言で説明できないところ) で、しかも大切そうな部分に時間をかけて読む、といった感じ。
時間をかけて読む、をもう少しくわしく説明すると、大切そうな部分に書いてある文章をばらばらにして、並び替えながら大切じゃないと思うところを捨て、言葉足らずと思うところを書き足し、自分に分かりやすい言葉に書き直しながら、できれば、空で言えるくらいに短くまとめる。その作業をとおして、より細かなアウトラインを把握する。
慣れてくると、ノートなしで暗算のように頭の中でこの作業ができるようになるけど、すごくややこしい論文を読むときや、疲れて集中しにくいときには、かっこつけずにノートをとりながら、この作業を進める (ぼくの場合、ここ7-8年はアウトライナーが、ノートをとる場所になっている)。
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このシチメンドクサイ文章を「読む」作業は、当初なんとなくイメージしていた「読む」とちがう。当初イメージしていた「読む」は、たとえば、文章として書かれている情報を自分の頭に取り込む作業と呼べばいいだろうか。
でも、このシチメンドクサイの読むは、書かれている文章をばらして、リライティングしながら、その文章に書かれてある情報をひとつ上の階層から整理するような感覚。
これはたぶん、情報を取り込んだあとの、情報を処理する作業のひとつだろう。
で、あなたはもう気づいていると思うけれど、このシチメンドクサイの読むは、ぼくたちが、アウトライナーを使って自分の文章を書くプロセスに似ている。
なんだ、そうだったのか。「読む」というもじゃもじゃの草むらの中には、「書く」に似た「読む」もじゃもあったんだ。
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ぼくの場合、論文や専門書が読む対象だったけれど、あなたにとっては、たとえば会社が取り入れた新しいネットワークシステムのマニュアルや、法律の文章なのかもしれない。
そうそう、慣れない外国語の文章や古文書を読むときに、こんなやり方をしている人がいるかもしれないし、プログラムコードを理解するときに使っている人もいるんじゃないだろうか。
じゃあ、シチメンドクサくない文章、たとえばあなたが好きな小説や詩を、同じように読むことはできるだろうか。それとも、やっぱりそれはナンセンスなんだろうか。
今回みつけたシチメンドクサイの読むを、こうやってもう少し広い範囲で探す作業は、今のぼくの楽しみのひとつ。
「読む」と「書く」に似ている部分があるってことが、ぼくたちの生活にどんな意味があるのか、それとも全然どうでもいいことなのかも、気になりはじめたところ。
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皆さん、シチメンドクサイ話しにつきあってくださり、ありがとうございました。
(え、読んでない?)