gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


岩手山と姫神山

 

 ふるさとの山に向かひて

 言ふことなし

 ふるさとの山はありがたきかな

 (石川啄木. 一握の砂)

 

フィールドワークしている渋民 (しぶたみ) は盛岡の北側、ちょうど、岩手山と姫神山 (ひめかみさん) のあいだにある。

だから、データ採りをひと段落させて立ち上がり、正面にどっしりとした岩手山をみながら一息ついてふりかえると、なだらかな円錐形をした姫神山がとおくにみえる。

渋民は、石川啄木のふるさと。明治半ばに生まれた啄木のことは、ここに来るまでほとんど知らなかった。

渋民そばの玉山にある彼の生まれた寺をみつけたのは、本当に偶然。ノスリというタカの調査地を選ぼうと車であちこち走っている最中だった。その門前には、たぶん樹齢100年以上の大きなスギが何本かあり、となりに「啄木生誕の地」とかかれた大きな石碑があった。

石碑には、母を想う啄木の歌もしるされており、古いスギの木たちに守られているようにみえる言葉をよみながら、啄木が明治後半を生き、文学を志した人であることを初めて意識した。

そして、調査を終えて帰る前の夜、盛岡市内の本屋でドナルド・キーンが書いた啄木の伝記1を買った。そこに描写された彼の人生は、教科書でみた短歌から思い描いていたものとはちがう、わずか26年の激しい人生だった。

日本の農村で生まれ、貧しさの中で生き、貧しさの中に死んでいったひとりの青年。その人生を、キーンはローマ字日記などのていねいな引用を基礎に、勇気ある解釈も織り交ぜながら描いている。

「(啄木の) 作品が我々の前に描き出してみせるのは一人の非凡な人物で、ときに破廉恥ではあっても常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとって忘れ難い人物となる」

岩手山は、ぼくにとって少し荒々しい火山という印象がある。火口付近や標高の高い場所には赤茶色にみえる地肌が広がり、いくつもの深く尖った渓谷が刻まれている。

標高も低く緑豊かな姫神山の円錐形は、なだらかでそのまま里山の丘陵地につながる。渋民はそのふもとにある。

お金に無頓着だったという父の事情で、生まれてすぐ玉山を出て渋民の寺に越してきた啄木は、中学までの15年をこの村ですごしたそうだ。

調査のあいま、この岩手山と姫神山をとおくにながめるとき、啄木は、この山たちをどんな気持ちでみていたんだろうと考えたくなる。

田んぼの収穫を終え、農家の人たちがほっと一息つくこの季節、姫神山から渋民のすぐ裏までつづく森は、まだ紅葉が始まったばかり。イタヤカエデが息をのむような赤に染まり、ミズナラのそろそろ黄色くなり始めた緑の中に映えている。

たとえば120年前の秋に啄木は10歳。小学校からうちへ向かう道すがら、啄木が刈取りの終わった田んぼの向こうに岩手山をながめたとき、このエンマコオロギの声はきこえただろうか。彼の足音に気づいたヒバリたちが、今と同じように群れになり小さな声で鳴き交わしながら、飛び立っただろうか。

そして、岩手山の左、とおい奥羽山脈に沈むこの金色の太陽をながめただろうか。

キーンによると、啄木はそれまでの短歌表現を大きく変えた。生活の中で感じとった心のうごきを、彼しかできなかった方法を駆使して短歌という形式で表現した。

岩手山と姫神山をとおくにみながら、畔道を駆ける少年の啄木を想像したあとに彼の言葉をながめると、少しちがった風景がみえてくる。

数10キロにわたる120年前の風景。それが瞬感、今になる。

ぼくは、こういったやり方で風景をながめることが、何よりもの楽しみであることをあらためて思い出した。

 

 晴れし空仰げばいつも

 口笛吹きたくなりて

 吹きてあそびき

 (石川啄木. 一握の砂)


  1. ドナルド・キーン (角地幸男 訳). 2016. 石川啄木. 新潮社, 東京.