on outline processing, writing, and human activities for nature
彼女と一緒に南イングランドを旅行したとき、マリオというイタリア人にあった。彼は、シャープソーンという小さな町で、オーガニック・カフェを経営している、ぼくの中では典型的な元気一杯のイタリアおっさん。
何度目か忘れたけど、店に入ると「やぁ」と声をかけあうくらい顔見知りになった頃、マリオは自分の生まれ育ったイタリア南部のことを話してくれた。
マリオの故郷は、山と海に挟まれた町。「南なので冬は暖かいし、海辺の山麓なので夏も涼しい。それに、海がとてもきれいなんだ。マンマのつくる料理が美味しいのはもちろんだけど、それ以外にも美味しいものを振舞ってくれる店もいっぱいあるよ。もちろん、エスプレッソも美味しい」
そういうことを、楽しそうに長あぁぁぁく話してくれた。お前らも今すぐにでも、そこに行くべきだし、そこに住むべきだという勢いで。
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別のときに出た話しだけど、そのマリオが言うには、日本はお気に入りの国。その理由は明快で、コーベ (神戸) があるから。
彼が一大決心して仕事をやめたとき (このシャープソーンにやってくる前)、それまで働きながら貯めたお金を使って船の世界一周旅行に出かけたそうだ。
話しの途中で、ちょっと待ってという手振りをしながら店の奥へ入ったマリオは、分厚いノートというかアルバムのようなものをテーブルにもってきた。彼が開いたページには、白くて大きな船の写真が貼ってあった。タイフーンやハリケーンなんて屁でもないヨーってしゃべれるくらい頭脳明晰で自信満々にみえる、でっかくて窓のいっぱいついたクルーズ・シップ。
マリオはその船を指差しながら「このクルーズ・シップで、日本へも行った」とぼくらの目をみる。それから、グーした上むきの左手をぼくらの方へつきだし、親指から順番に指を伸ばし、つまり日本的に言うと指を折りながら「コーベとオーサカ、それにトキオ、3つの港に泊まったんだ。その中でも、コーベはとくべつな場所になった..」
そこだけ音量を落として、しみじみと話した。
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で、ここが最初のポイントだけど、こんな風にある町や村の風景を話せるようになることは、大切なことじゃないかとぼくは考えている。
理想化しすぎず、適度に現実の手垢や汗にもまみれながら、そこへ行けば、たしかにそこにある風景と空間。
そういう場所は、たとえばちょっと疲れたときに立ち寄るカフェのような、あるいは、もっと大きな転機にそこに帰って深呼吸し、自分を眺めるベースになるのではないか。
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Tak.さんの『アウトライン・プロセッシング LIFE』という本に、「坂道があって、振り返ると海の見える住宅街を散歩する」というアウトライン項目が出てくる。「人生で重要なことに関係する風景」というグループのひとつとして。
これ以外にも、彼のブログを読んでいると、そういった風景を描いた文章が、思い出したようにでも何度となく登場する。
ぼくは、このTak.さんにとっての「振り返ると海の見える住宅街の風景」は、きっとマリオの生まれ故郷やコーベの風景と似た役割をもっているのではないかと予想している。
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こういう形で風景を思い浮かべられるようになるには、そういう風景を持とうとして色々な場所を訪れるだけでは難しい。そうではなく、別の理由で訪れた場所で偶然そういった感情をもつようになるプロセスが大切なのかなと、今のところ考えているけれど、皆さんはいかがでしょう。
できれば自分の頭や心の外にある現実に存在する生きた風景で、自分が忘れていたような、あるいは思いもよらない風景に出会うことができる場所。通い慣れた大切な場所での思いもよらぬ風景との出会いは、自分の位置づけというか居場所のようなものに気づくきっかけになりやすいのではないか。
ライフ・アウトラインは、日々の生活(ライフ)で出会う大切な風景を見逃さずつかみとる道具になるだけでなく、その風景を生活の一部にし人生 (ライフ) のコンパスとして使えるようにする道具でもあると、ぼくは考えている。
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ライフ・アウトラインの話しをもう少し。
『遠い太鼓』という本がある。人生の転機を迎えた村上春樹さんが止むに止まれず日本を飛び出し、ギリシアやイタリアなどで小説をつくった時間の、記録のような物語りのような作品。
その本には、彼が住んだり旅したりした町や村の風景が登場する。そこにくらす愛すべきギリシア人やイタリア人と、どたばたしながらへとへとになりながら生活している彼と奥さんの風景がある。ぼくは、これらの文章こそ、村上さんにとってのライフ・アウトラインだったのではないかと予想している。
そしてそれをもうちょっと延長して、たとえば、クロード・モネがアルジャントゥイユの風景を描きつづけたのも、フィンセント・ファン・ゴッホがアルルやサン-レミの光景や自分の顔を描きつづけたのも、似たプロセスだったのかなと考えている。
マリオに話しを戻すと、彼にとってはあのオーガニック・カフェ自体がライフ・アウトラインとして機能しているのではないだろうか。彼が過ごしやすいと思う部屋のレイアウト、みんなに食べて欲しいと思うメニュー、その食材を得るためのネットワークや畑づくり、カフェをベースにした地元のためのボランティア活動を一目でみてとれるリストの役割を、彼のお店が担っているようにみえた。
ライフ・アウトラインを育てる手段や道具は、アウトライナーを使って文章のアウトラインをリライトしつづける以外の形もあるのだ。
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ライフ・アウトラインがすばらしいのは、作家や画家のようないわゆる「創造的」な生活を送る人たちだけが得られると思っていた幸福感を、ぼくたち多くの人が気軽に手にするための具体的な技術として提案されている点にあるのではないだろうか。しかも、そのアプローチやねらいも、オリジナリティいっぱいの形で。
だからまずは自分のまわりを見渡して、あなたのライフ・アウトラインがそこにないか探してみよう。もしみつけられたら、Tak.さんのやり方とくらべたりして、自分のアウトラインのすごいところとダメなところをリストアップしてはどうだろう。そのリストは、あなたの道具としてのアウトラインを育てるきっかけになるかも知れない。
で、もし「アウトラインなんてみつからなかったよー」という場合には (ほんとはどこかに隠れているはず..)、Tak.さんのやり方に倣ってみることをオススメしたい。この本には、無料あるいは年数千円ていどの安さで手に入るアウトライナーの紹介もあるし、それを使ってライフ・アウトラインを育てるやり方が、簡潔だけどていねいで具体的な形で説明されている。
もちろん、そのやり方やアウトライナーというソフトウェアに縛られる必要はない。アウトライン・プロセッシングのいいところは、その自由さにあるとぼくは胸を張って言える。やり方の「型」を身につけたあとは、それを意識的に手放して「楽」にやっていくことができる。
Tak.さんの提案するライフ・アウトラインは、はじまりとしてこそ大切な意味をもつのだ。